■彼岸と此岸との「回廊」で繰り広げられる、生と死、聖と俗が交互に織りなされたタペストリーのごとき物語
この物語となっている村。そこにも、死の匂いは、満ちている。村のそばには古代墓地があり、村を流れる川は、昔、近隣の村人が木箱に死体をつめて流したと言う。この村は、そう、彼岸と此岸の境にある、それをつなぐ回廊のような場所なのだ。そこは、「死」に近いにかかわらず、おどろおどろしさとはまったく無縁だ。静謐で、どこか懐かしくもある。
そんな場所に住み、骨董屋で手に入れた見も知らぬ家族の写真を傍らに置きながら、はるか昔に命を終えたであろう彼らの「死」を思って安らかな気持ちになる「僕」。
彼は、「死」に馴染んで生きている、いや、もしかすると、半分くらいそちらの世界に足を突っ込んで生きている存在のように思える。ブラフマンの名づけ親であり、墓石の碑文を刻む彫刻家もそうであろう。
そして、そんな「僕」のもとに、突然やってきて、突然去るブラフマンは、無垢なる命そのもの、「生」の一瞬のきらめきそのものに思える。
また、「僕」は、俗世間を逃れてやってくる芸術家たちの世話をしながら、俗世間そのものに属しているかのような雑貨屋の娘にも魅かれるものを感じているのである。彼女には、既に身体を重ねあう恋人がいる。「僕」は、自分が、彼女たちのいる場所には属せないことを知りつつ、彼女を突き放せないのだ。
生と死、聖と俗――彼岸と此岸の回廊を舞台に、相反するものが交互に織り成された一枚の美しいタペストリーのような物語。それが本作なのだ。
■「ブラフマン」って一体、何?明かされない「謎」が想像力の翼を飛翔させる
それにしても、胴より長い足を持ち、泳ぎのうまい「ブラフマン」という小動物、その書体は、何なのか?ちなみに、私は、最初、カワウソのような半水棲動物を想定して読んだのだが、読み進むにつれて、その存在が自身の飼っている猫に同化してしまい(泳げるというから猫のはずはないだが)、胸が詰まってものすごく切なかった。
本作は、その正体は、謎のままで終る。
「ブラフマン」の意味を調べてみたら、
――ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。外界に存在するすべての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。それは純粋な存在と意識そのものであり、ある意味では「世界の魂」とも呼べるもの――
この説明が、読後の感情にぴったりくるように思う。
だが、「正しい」答えを探すことは、おそらく、無粋というものだろう。
読むものがそれぞれが、それぞれに想像力の翼をはためかせ、自由に像を結べばいいのではないだろうか。
なぜなら、本作は、懐かしいのに、見たことのない、そんな世界で繰り広げられる物語なのだから。ひととき、今いるところから、その異世界に心を飛翔させてくれる、そんな物語なのだから。
そして、それこそが、物語を読むことがくれる最大の贅沢なのだから。
この本を買いたい!
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