映画/映画関連情報

『名もなきアフリカの地で』(3ページ目)

8月9日(土)~公開。第二次大戦下のドイツ。ナチスの手から逃れるためアフリカ移住したユダヤ人一家。過酷な現実にとまどう両親。一方、娘のレギーナは人々との交流を通じてたくましく成長していく…。

執筆者:南 樹里

★☆INDEX☆★【1】作品の紹介【2】作品の魅力【3】監督が語るケニア撮影秘話【4】ストーリー&南のコメント『公式サイト』製作のペーター・ヘルマンがシュテファニー・ツヴァイクの自伝的小説「NIRGENDWO IN AFRIKA」と出会ったのは1995年のこと。それがベストセラーになったのは、ヘルマンが映画化権を獲得した後だった。カロリーヌ・リンクが脚本と監督を引き受けることになったのが1998年。1999年初め、監督とヘルマンの二人が原作の舞台を見るために、初めてケニアを訪れた。ケニアで映画を撮るのは、南アフリカのように設備の整った国で撮る場合よりも困難で、リスクも大きく、大変なのは間違いなかったが、監督には、原作の舞台に近い場所で撮影すれば、それだけ本物らしい、雰囲気のあるいい映画になると確信があった。2000年春、プリ・プロダクションがスタート。8月にはナイロビにプリ・プロダクション・オフィスを開き、半年後の撮影開始を目指して具体的な準備にとりかかった。Q:インフラが整備されていないケニアで撮影を行うことにしたのはなぜですか? 設備の整った南アフリカで撮ることもできたのでは?A:ペーター・ヘルマンと私は当初から、この物語で描かれる土地で実際に生まれ育ったアフリカ人俳優とエキストラを使おうと決めていました。ズールー族の人たちにマサイ族の格好をさせたり、マサイ族の人たちをズールー族に仕立てたりするのは、感心しません。こういったディテールは本物でなくては。結局のところ、彼らが自分たちの土地について多くを物語ってくれるわけですし、この土地ならではの独特の雰囲気と感覚を映画に与えてくれるのも、彼らなのですから。そういうものは簡単には再現できません。たとえ撮影が困難だとしても、真実を犠牲にする理由にはなりません。
名もなきアフリカの地で
Q:映画に出てくる儀式は? 本物です。本物でいくということが私たちにはとても重要でした。でもキクユ族の長老たちが行った雨乞いの儀式は、実際には何時間もかかったので、ほとんどカットしなくてなりませんでした。イエッテルとレギーナが夜中に見に行くポコット族のサヴァンナの儀式も同様です。実はあれは特定の年齢層の少年たちにとっての通過儀礼なんです。私たちが唯一手を加えたのは衣装でした。言うまでもありませんが、近頃は若者たちもTシャツやカラフルなシャツを着ていますから。
【 ナイロビの仮設縫製工房で200人分の衣装を製作 】
撮影第2期目のロケ地はオル・ジョロ・オロク。ここには3週間滞在。最初の農場シーンを撮影したロンガイと対照的に、ここは青々とした肥沃な土地に見えなければならなかった。平らな峡谷のちょっとした川床の上に、アンティークな外観の農家が建てられ、撮影はすべてその周辺で行われた。第3の舞台、ムクタニでの撮影の前に、ふたつの厄介な舞台が残っていた。ホテル・ノーフォークとナイロビの大通りである。当時の衣装を着けたエキストラが大挙出演する場面で、ショットによっては200人のエキストラが必要になる。メイクアップ・アーティストたちは、1940年代のヨーロッパのヘアスタイルの作り方を心得ている5人の助っ人に、ドイツから応援に来てもらわなければならなかった。経費節約のため、ナイロビに小さな縫製工房を作り、そこで衣装のほとんどを製作した。
  • 前のページへ
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 次のページへ

あわせて読みたい

あなたにオススメ

    表示について

    カテゴリー一覧

    All Aboutサービス・メディア

    All About公式SNS
    日々の生活や仕事を楽しむための情報を毎日お届けします。
    公式SNS一覧
    © All About, Inc. All rights reserved. 掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等を禁じます