単身、上海へ
――高校を卒業して1996年頃に単身、上海へ行かれるわけですが、上海は中国の中でも進んでいると言っても、当時クラブカルチャーというのは存在していたのでしょうか?ディスコはすでにたくさんあって、どのディスコもたくさん人が入ってました。だけど、かかっているものは本当にヤバイ感じの音楽ばっかで。4つ打ちで言えば、イタロハウスっていうのか。普通は、サンタナだとか、CHA-CHAだとか。Ace Of Baseだったり。クラブミュージックのカルチャーはなかったですけど、ディスコミュージックのカルチャーはありましたから、それなりのモノはすでにあった様な気がします。
――最初、どのようにDJとしての売り込みや活動を始めたのでしょうか? また、DJとして経済的状況はどうだったのでしょうか?
いろんなディスコに行って、CD持ってったり、レコード持ってったりして、オープン前にその箱のレジデントDJに聞いてもらってました。向こうは箱に勤めるって感じで、週6日間ぐらいDJする感じの箱DJなんで、皆生活できるぐらいのお給料はもらってました。
――DJ用のレコードはどのように調達されていたんですか? その当時、上海でウケたトラックなどがあれば教えてください。
日本に帰ったり、ニューヨークのSATTELITE RECORDSとかからネットで買ってました。あ、あと香港に行ったりもして。上海でウケた曲はJosh Winkの「Higher State Of Conciousness」や、Satoshi Tomieさんの「K-GEE」とか。Ruffnekの「Everybody Be Somebody」もかなりみんなかけてた記憶があります。
――上海以外にも北京や広州でもDJをされていたと思いますが・・・やはり中国は広いですから、各都市によってかなり客層や反応などは違うのでしょうか?
全然違いますね。とても気温が寒い北京はあまりハデサがないモクモク系。南国の広州はハデなハウスが好きって感じですね。