私事で始めてしまいますが、僕がテクノポップというガイドの仕事をしているのも、フィルムス(FILMS)のお陰なんです。元々、テクノポップに関する個人サイトをつくるきっかけが、僕が当時大・大好きだったフィルムスは今どうしているんだろうというのがあったのです。それが、転じて、POP ACADEMYというサイトとなり、All About Japanテクノポップ・ガイドへと繋がっていったのです。赤城さんは、僕にとっては師匠なんです。そして、今回のインタヴューは、自称「フィルムスの謎解き人」としての落とし前的な意味もあるのです。
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――まずは、フィルムスの話から聞かせてください。『MISPRINT』(1980年)では、近未来的なコンセプトで1980年にデビューし、僕は「バグルズmeets鉄腕アトム」的世界にとっても惹かれたんです・・・赤城さん自身は、ほとんどの曲を作られていますが、フィルムスをどのようなグループにしたかったのでしょうか?
音楽的には、バグルズとかの80年代のちょっと変わっているエレクトロポップに影響されていますが、ステージでは、シアトリカルなものをやりたいと思っていて、チューブスとかを意識していましたね。ライヴでもトレーシング・ペーパーを使ったヴィジュアルな演出をしていました。
――フィルムスは『MISPRINT』で9人がクレジットされていますが、実際のメンバーはもっと多かったと聞いていますが、どのような集団だったのでしょうか?
確か、中原(信雄)君から岩崎(工)君から紹介してもらったんですが、最初は岩崎君の音楽性もあまり知らなかったんですが、岩崎君はスタイリッシュな機材を使っていて、何か馬が合うんじゃないかなと。
――ということは、赤城さん、岩崎さん、中原さんが中心メンバーだったんですか?
そうですね。後、外間(隆史)君と一番初期の頃やり始めて、メンバーを募ったのです。
――でも、外間さんは『MISPRINT』のクレジットに入っていませんよね。
あの頃は、彼はまだ青学の学生で、そして、ハワイに留学して、その時はまだ違った仕事を選ぶかもしれない状況だったんです。あの時、紹介の紹介と言う感じでいろんな人が集まってきて、不思議な縁で現在に至っています。
――シングルは『T.V. PHONE AGE』、その後『Girl』(1981年)を出しておられますが、メンバーはどんな感じになっていたのですか?
コーラスの女の子の二人(木内アキさん・小島洋子さん)が抜けて、残りのメンバーで作ったと思います。