――インディーでなければニューウェイヴにあらずといった風潮について、ご意見を聞かせて下さい。
当時、たとえばアナーキーなんかを業界ニューウェイヴと呼んで馬鹿にする風潮がありました。これが私は嫌でした。メジャーデビューしているかどうかではなく、バンドと作品そのものを直接評価すべきだと私は考えます。これが翌年メジャー活動とインディー活動を平行して行う布石になります。メジャーとインディー(マイナー)など、バンド(アーティスト側)から見れば、単なる流通形態でしかないのです。
チャンスがあれば、どんなバンドだってメジャーデビューすればいいのです。メジャーを馬鹿にする風潮は、私には、努力をしない人間がチャンスを得た人間をうらやむ、そんな構図に思えたのです。
――特に80年代において、共感を覚えた日本のアーティストが居れば、教えてください。
これは、ひどく難しい。たとえば、チャクラにいた美潮さんのファンでしたが、共感ということですと難しい。たとえば、同じ会社の同じプロジェクトのスタッフを考えてみてください。共感を覚えたり、反発を覚えたり、生きている以上、それはあります。私の場合はこれが顕著でした。
例えば、LIZARDが1stアルバムを発表したとき、ライブのアグレッシブな部分から派生したのが後のハードコアになるわけで、このジャンルのミュージシャンを私自身否定はしない。そうした表現が必要なら、そうした表現をする。ただ私が必要ない以上、私自身はそれを演奏しない。当然のことです。
ここを正しく理解していたのはジャガタラのアケミくんくらいでしょう。彼以外は、パンクといいながら、まったく異なるスタイルを平気で取り入れる私のスタンスは、パンクに対する裏切りと映ったようです。もっとも、わざと曲解した人間も多いのですが……。
『バビロンロッカー』ではポジティブなメッセージ性を確立しました。これはその後の、いわゆる業界ニューウェイヴ、業界パンクスに引き継がれました。この明るい部分は、例えば、ナゴムあたりに影響していると、今からなら、考えられます。
三枚目、ジムノペディアでは、ジュネ率いるオートモッドをバックにしていました。このサウンド、傾向は彼らに直接引きわたされたわけです。この傾向は、ゼルダのサヨコを経由して一時のルースターズにバトンタッチされる。
東京ロッカーズは、もちろん、今に至るまで、私に、感情やモチーフにしたがって使うべきアレンジ、手法を提示してくれたアーティストはそう多くいません。私は80年代という池の中で苦闘しておりました。同じ池に生きていたアーティストは戦友のようなもの、そんな気がします。
(つづく)
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