――LIZARDは、テクノ・パンク(技術としてのテクノと精神としてパンクが両立していたと言う意味合いで) と捉えていますが、当たっているでしょうか?
これは完璧にそう言えると思います。LIZARD前期に、私達は、全員がシンセを演奏するバンドをやっていてある劇団のバックをやったことがあります。この劇団がヒカシューになりました。シンセ、エレクトロニクスバンドとしての私達、という捕らえ方をしないと、8 1/2なんかとの繋がりが分からないだろうし……。
東京ロッカーズは、私達以外は、完全にニューヨークスタイルのパンクの影響下にありました。ですから、東京ニューウェイヴの、若い世代とは縁が薄かったのです。他のバンドは私達より年長だったということもありますが、私達は、秋葉原を歩いて自分達のオリジナルディバイスを作ったり、オリジナルのテープコンポジション(テープ編集で作品をつくるアートワーク)を製作したり、けっこう独自路線を歩いていました。それで、ゴジラレコードの初期には、私達の機材を提供したりするわけですね。その後も、ディバイス進化と音楽の接合点が私の作品の重要なポイントになっていると思います。
――LIZARDは東京ロッカーズの核となっていましたが、このシーンを形成していった原動力は何だったのでしょう?
一概に言えないのですが、今日、実現しているシステムがほとんど手付かずで荒野として残っていた、そういうことだと思います。東京ロッカーズの直前、時代はかなり閉塞感に支配されていたわけです。それがある日、目の前にあるのが、まだまだ開拓する余地が残されている荒野であることに気づく。となれば、動くしかないし、提案するしかない。
考えてみてください。当時は、コンサートは地周りのイベント屋の領分だったんです。ライブハウスツアーをやるバンドは限られていた。レコードの流通もほとんど企業の全体主義的支配下にあったわけです。ライブにしてもCDの流通にしても、やるべきことは、たくさんあった。私は、このまだ実現できていないものを提案し、活動すればよかった。そして、そのほとんどは成功、成長し、今では常識的なことにまでなっている。
――79年の夏のイヴェント『DRIVE TO 80's』にLIZARDは出演していますが、当時のエピソード等あれば、教えてください。
あまり覚えてません。当時、この企画はロキシーハウスを連絡場所としていました。このロキシーハウスというのは、私がやっていた下町の普通のレコード屋さんでして、ピンクレディーやキャンディーズなんかを売ってました。そこがChange2000の事務所でもあって、近所には後にテレグラフをやる地引氏なんかも引っ越してきていたのです。
その企画なのですが、ご存知のように私は、直前にロンドンへ出かけていたのです。ただ帰ってきてから、スタッフの人間が、どこかのバンドと揉め事を起こしたという話を聞いて、私自身は説教をたれたのですが、詳細はわかりません。