『 ドゥ・ザ・ライト・シング (DO THE RIGHT THING) 』
(1990年)
監督:スパイク・リー
主演:スパイク・リー、ダニー・アイエロ
舞台は記録的な猛暑が続く真夏のNY、ブロンクス。
ゲットーに住む普通の人々、普通の生活。
マルコムXとキング牧師の写真を持ちながらストリートで人権運動をするどもりのスマイリー。
ピザ屋の壁に黒人の写真が貼ってないと講義する黒人至上主義のバギン・アウト。
愛を訴えるメイヤー(市長)と呼ばれる酔っ払いの老人。
馬鹿デカいラジカセを担いでヒップホップを啓蒙するラジオ・ラヒーム。
ピザ屋を経営するイタリアンのサルとその息子ピノとビト。
そのピザ屋でバイトする無気力なムーキー。
子供の養育問題で姑と喧嘩の絶えないムーキーの妻ティナ。
働きもせず井戸端会議ばかりしている中年男達……etc。
そんな些細な日常、朴訥な人々の間にも些細なトラブルは耐えない。
異人種間の軋轢(vsイタリアン、vsアフロ・アメリカン、vsアングロ・サクソン、vsプエルトリカン、vsコーリャ、vsユダヤetc)、生き方の確執、親子間のトラブル、兄弟間のトラブル、警察と黒人のトラブル。
そうした小さな軋轢が、バギン・アウトのサルのピザ屋のボイコット騒ぎを契機に徐々に飽和に達し、遂にはその小さなイザコザが暴動に繋がる大きな事件に発展していく……。
冒頭コメディータッチで始まる物語も、後半シリアスな問題に摩り替わっていく。
物語の中間、老人が主人公に向かってこう説教をする。
「All Way Do The Right Thing!(正しい事をしろ)」
だが≪Do The Right Thing(正しい事)≫とは一体?
スパイクは、そのメイン・テーマを白日の下に晒すべくこの作品の全編を使って問うていく。
終焉、その答えを導く一つのテーゼとして相反するふたつの言葉を記した。
「人種差別に暴力で闘うのは愚かな事である。
暴力は破壊に到るらせん状の下り階段で、?目には目を?の思想はすべてを盲人に導く。暴力は敵の理解を求めず敵をはずかしめる。暴力は愛でなく憎しみを糧とし対話でなく独白しか存在しない社会を生む。そして暴力は自らを滅ぼし生き残った者の心には憎しみを、暴力を振るった者には残虐性を植えつける」(マーティン・ルーサー・キング)
「アメリカ人には善人も多いが悪人も多い。権力を手中に握り、我々の進む道を阻んでいるのは悪い奴らで、この状況を打破するために闘うのは我々の権利である。私は暴力を擁護する者ではないが、自己防衛のための暴力を否定する者でもない。
自己防衛のための暴力は<暴力>ではなく、<知性>と呼ぶべきである」(マルコムX)
問題を解決する為に必要なのは<暴力(排除)>なのか? それとも<愛(理解)>なのか?
「右手と左手の話をしよう。善と悪との話だ。
(左手は)<憎しみ>、これが原因で人間は殺しあう。(右手は)<愛>、この5本の指が人の魂に触れる、右手は愛の手だ。人生はいつもこうだ。愛と憎しみ。 右手と左手はいつも闘っている。面倒ばかり起す左手。右手は一瞬負けたように見える。だが、右手は勢いを取り戻し左手をロープ際に押し付ける。右手の一発! 左手はダウン! 愛の右手のKO勝ち! 俺はお前を愛している。だが、憎むと……」
(次ページに続く)