All About 住まいを考えるガイド、藤原千秋氏との会話の中で、ふと持ち上がった、ある「発見」。それは、お互い東京近郊で団塊ジュニア世代として育ったにも関わらず、お互いの地元に
「好き嫌いを超越した恐怖」(藤原氏。横浜に対して)
「完膚なきまでの無知・無関心」(河崎。埼玉に対して)
を抱いている(?)ということであった。
藤原氏「京浜東北線が横浜に近づくと、違和感を感じ、気分が悪くなる。藤沢で冷や汗びっしょり、鎌倉で昏倒寸前。きっと前世に何かあるに違いない」
河崎「私の知識は池袋まで。それより北には、生まれてこのかた行ったことがない……はず」
藤原氏「とにかく横浜は体が拒否している。横浜アリーナのライブも生死をさまよう覚悟で行った」
河崎「池袋自体、両手で数えられるほどしか訪れた記憶がない。サイタマのサイの字って、土偏(つちへん)でしたっけ?」
見事な平行線をたどる会話。非常に近い世代体験、カルチャー体験(同じ渋谷系ミュージシャンのファンだった歴)を共有しているにも関わらず、二人の間に突如立ち現れたギャップ。長い沈黙(ウソ)を経て、住まいのプロフェッショナルである藤原氏から静かに発せられたのは、「なぜあなたはその街に住まうことを選択したのか?」という質問だった。
というわけで、今回は「フニワラさんへのアンサー」。藤原氏による絶品の団塊ジュニア考『独特な”団塊ジュニア”の住まい観を考える』も、ぜひ合わせてご覧下さい。
東急沿線育ち、渋谷が一番近い「都会」の
「真性」団塊ジュニア
『東京から考える』ともに1971年に生まれ、郊外に育ち、中高一貫校から東大へ。気鋭の論客2人が東京の光景を素材に現代社会を討論する。 |
団塊ジュニアのヒトビトは、とにかく頑張ってきた。中にはIT長者やら何やら、少しやりすぎた人もあるようだ。史上最大の母集団を持つ世代の一人として生まれ、長い学校生活は夥しい生徒たちの中で否応なしに競争を強いられ、ようやく大学生になって少しは息がつけるかと思った途端、日本経済は基礎から大崩壊。もともと母数が多いところに求人も少なく、就職はブリザード吹きすさぶ大氷河期。一縷の望みを託して、ITや語学系でどうにか資格武装したり、「実力勝負」と当時言われた外資企業に食い込んで体を壊しながら頑張ったり、いっそ起業したり、「疲れた」とパラダイスを求めて格安チケットでインドやタイに行き、「懸命に」癒されてみたり。とにかく生まれてからこっち、ずっと「へとへとに疲れているのに、それを認めることができずに走り続けている感」がある。
頑張り続ける団塊ジュニアのテーマの一つは「諦念」だ。努力し続けなきゃいけないのは、「仕方のない」こと。母集団が走り続けているのに、自分だけ路傍に座り込んでしまったら、誰一人振り向かずに置いていかれるだけのことだ。香山リカ氏に「貧乏クジ世代」と称されたことも、粛々と受け入れる。それも仕方のないことだ。だって、自分達は日本経済の焦土からどうにか這い上がってきた気分なのだから。団塊ジュニアたちの10年間の社会人生活は、そのままバブル崩壊後の日本経済の10年間なのである。
ガイドは、団塊ジュニアど真ん中の1973年生まれ。三浦展氏によれば、団塊ジュニアには「ニセ」と「真性」とがいて、71年から74年生まれの人々の親は、実は団塊世代よりももう少し年上。本物の団塊世代の子どもたちは、77年生まれあたりにいるという。しかし、昭和22年生まれの父と昭和23年生まれの母、すなわち「ザ・団塊世代」の親を持つ私は、哀しくも生粋の「ザ・団塊ジュニア」となるようだ。
東急東横線の沿線(神奈川)で育ち、東急線沿線の大学付属幼・小から都内の中高一貫女子校へ。幼小の友人達もジモティーか新参引越し組かの違いはあれど、東急東横線か田園都市線のどこかに住んでいた。「ハレ」の日の買い物は東急線のターミナル駅である渋谷か、あるいは横浜がメインで、学校帰りにブラブラと買い物をするのも渋谷。塾をサボって遊ぶのも、男子校の生徒達と合コンするのも渋谷だった。チーマーがウロウロするセンター街(当時)は避けて通り、憧れるファッションは渋カジ代名詞のビームスやシップス、ラルフローレンといった「付属校」テイスト。大学は神奈川のチベット、藤沢の奥地である。
途中、引越して3年ほど関西にいたが、その時に住んでいたのも新興住宅地。そもそも祖父母宅も「○○が丘」「○○園」なんていう戦後すぐに造られた新興住宅地で、私の住まいの記憶は「郊外」にしかないと言っても過言ではない。