橋の建設をきっかけに開発、
両国は江戸時代の新興住宅街
現在の両国橋。これが出来たことで両国は当時の江戸の中心地と直結、便利さがアップした。現在の京葉道路である
両国の地名の由来となったのは江戸時代、振袖火事と呼ばれ、芝居の題材などにもなっている明暦の大火(1657年)を機に隅田川にかけられた両国橋。江戸幕府はそれまで首都防備のため、隅田川への架橋を厳しく制限してきたのですが、この火事で逃げ場をなくして多くの市民が犠牲になったことから、防火、防災目的で架橋を決断したのだと言われています。
隅田川を挟んで反対の中央区側。ちょうど神田川が隅田川と合流する辺りで、昔はこの両側も繁華街だった
当初は大橋と呼ばれていたものの、武蔵と下総の2国をつなぐという意味で、次第に両国橋と呼ばれるようになり、それが地名になったといいます。当初は隅田川を挟んだ中央区側を西両国、墨田区側を東両国と呼んでいたそうですが、駅の設置、国技館の開館でいつの間にか両国といえば、東両国を指すようになり、1967年に東両国から両国へ地名が改称されています。
回向院。境内には鼠小僧次郎吉をはじめ、江戸から明治にかけての著名人の墓も多い。最近ではペット墓地としても有名
この橋ができたことで、江戸市中は隅田川を超えて広がります。両国の北側にある本所、南側にある深川も架橋以降、江戸の新興住宅街として発展するのですが、その中心地はもちろん橋のたもとという交通の要所であった両国。例えば、江戸時代、全国の寺社はお金を集めるため、江戸で自社の秘仏などを開帳するイベントをしばしば行っていますが、その開帳場所として選ばれていたのは両国にある回向院でした。
このところ、芳しくない噂の続く相撲界だが、街の発展のためにも問題を乗り越えて欲しいものだ
回向院は振袖火事の犠牲者を弔うために作られた寺院ですが、江戸後期には勧進相撲(これも寺社がお布施を集めるためのイベントのひとつ)の定場所にもなっており、それが両国が相撲の街となった理由でもあります。寺社参詣に相撲見物と江戸時代の庶民の娯楽が集まっているわけですから、当時の両国の賑わいは上野、浅草に匹敵するものだったとか。
両国橋の近くになるももんじや。掲げられている金色の動物は猪。季節になると野生の獣が店頭に吊るされるそうだ
現在の両国に相撲部屋やちゃんこ屋さん、蕎麦屋さん、足袋屋さんその他の老舗が多いのは、その名残り。街の中で力士を見かけることも多く、力士向けのキングサイズの洋服屋さん、履物屋さんなども。珍しいところでは、江戸時代には薬喰いと称された肉食の店「ももんじ屋」(種々の獣の肉を出すという意から百獣屋の字をあてたなどという説がある)なども健在です。ちなみにモンゴル出身の力士が増えたからでしょうか、京葉道路沿いにはモンゴル料理屋さんもあります。
●今回取り上げるのはこのエリア
今回取り合えるエリアの概念図。距離その他は正確ではない
では、続いて
両国にある庭園、公園、博物館に足回りをチェック。