インターネットが災害で強いのは、パケット通信と分散ネットワークのおかげ
携帯メールが使えるのはパケット通信のおかげ
携帯電話でよく聞く、パケ放題のパケはパケット通信の略。インターネットを構成する重要な仕組みの1つです。パケットとは小包のことで、送る時に電文をパケットに分割します。
例えば携帯メールで「私は企業のIT活用ガイドの水谷です」という電文を作ると、「私は企業の」「IT活用ガイド」「の水谷です」とパケットに分け、空いている経路に送り出します。同じ経路を通るとは限りません。
受け取るとパケットを組みなおして電文を復活します。これで携帯メールが届きます。電話のように2地点間の通信を占有しませんので、通信回線を効率よく利用でき遠隔地に送ってもコストが安くすみます。
もう一つの重要な仕組みが分散ネットワークです。そもそもインターネットが生まれたきっかけの一つが1961年にアメリカで発生した電話中継基地の爆破テロ。国防省の軍事回線もダメになり、中央集権的な通信システムでは障害が発生すると全部ダメになるため、分散ネットワークが生まれました。
ネットワークですので2地点間にはいろいろな経路ができます。一部の経路に障害があっても他の経路を経由して通信できます。ただし、効率をあげるためにいくつかの工夫がされています。その1つがIXでプロバイダー間はIX(インターネット・エクスチェンジ)と呼ばれる相互接続ポイントで接続されています。
日本最初のIXは岩波書店にあった
日本最初のIXは岩波書店にあった
そこで1カ所で効率良く相互接続するための設備を設け、各プロバイダーはこの拠点(実態はLANスイッチ)と接続するようにしました。これがIXです。日本最初のIXは1994年に神保町にある岩波書店一ツ橋ビルの地下に設置されました。
もともと岩波書店には、学術系のWIDEプロジェクト(インターネットの先駆けとなった研究プロジェクト)が研究に参加する大学やプロバイダーのネットワークを相互接続するスイッチが置かれていました。当時は法律などがややこしく、一般家庭でモデムを電話につなぐにも届出がいるような時代でしたので、大学やプロバイダーから中立な立場である岩波書店が選ばれました。
岩波書店のIXは当初、わずか4社の接続でしたが、一気に接続数が増えていきます。インターネットの普及とともに複数のIXができ、東京以外にも分散していきます。インターネット専門誌「Internet Magazine」付録に初めて載った接続マップにはIXに29社が接続されていました。しばらくするとプロバイダーが増え、IXも増えたので虫眼鏡で見ないといけない状況になったため付録自体がなくなってしまいました。このIXが分散ネットワークを支えています。
→ 世界初のインターネット専門誌は日本で生まれた
Twitterが使えるのは海底ケーブルのおかげ
Twitterが使えるのは海底ケーブルのおかげ
→ リスク分散 IT分野での災害対策
ソーシャルメディアが震災で使えたのは、インターネットの中継拠点が震災の影響をあまり受けなかったことと海底ケーブルのおかげです。島国日本にとっては海外との通信は衛星もしくは海底ケーブルで行われます。しかも高速・大容量のインターネット回線は海底ケーブルしかありません。
震災で海底ケーブルのいくつかは影響を受けましたが、海底ケーブルも全国に分散していますので、損傷していない海底ケーブルを使ってFacebookやTwitterなどの海外サービスが活用できました。もちろん海外のIXにつながっています。
ふだんYoutubeの動画を見たり、動画をアップできるのもこの海底ケーブルのおかげです。YouTubeの親会社Googleは大容量コンテンツのやり取りのためにKDDIと組んで新しい日米間光海底ケーブルを敷設しています。
日本では千倉(千葉県)、二宮(神奈川県)、北茨城(茨城県)、志摩(三重県)、直江津(新潟県)、石狩(北海道)、沖縄などに海外から光海底ケーブルが敷設され日本のインターネットを支えています。この海底ケーブルは意外に古く、日露戦争でも活躍していました。
日露戦争の電文は海底ケーブルで打電
日露戦争の電文は海底ケーブルで打電
日本がバルチック艦隊を撃破できたのは秋山真之の丁字戦法など理由はいろいろありますが、大きな理由の1つが海底ケーブルの存在。
参謀・児玉源太郎が海底ケーブル敷設船を使って朝鮮半島や台湾などとの海底ケーブルを敷設し、東京の大本営と連合艦隊の間をネットワークで結んでいました。有名な 「天気晴朗なれども波高し」の電報も朝鮮半島にいた戦艦三笠から対馬海峡の海底ケーブルを通じて大本営へ送られました。
明治4年には日本に海底ケーブルが敷設されていた
明治4年には日本に海底ケーブルが敷設されていた
欧米視察団に参加した大久保利通がニューヨークから出した電信はその日のうちに長崎に届きましたが、ネットワークがない長崎-東京間は飛脚を通じて運び、東京に届いたのは3日後。
ペリー提督が2回目に来航した時には江戸幕府にモールス電信機を献上していますので電信があることを当時の人々は理解していました。福沢諭吉は鉄道敷設など公共財に熱心でしたが早い時期からアメリカとの海底ケーブル施設を主張しています。ようやく明治38年(1906年)に太平洋横断国際海底ケーブル敷設されます。ルートは東京-小笠原-グアム-ミッドウェー-ホノルル-サンフランシスコ。
現在では光ファイバーの海底ケーブルに置き換わっています。海底ケーブルですので8000メートルもの深さがある日本海溝に敷設されています。ケーブル敷設船という特殊船で海底ケーブルを引っ張りながら敷設していきます。我々がYou Tubeで動画が楽しめるのも、この海底ケーブルのおかげです。