鼻血を出した男性への思いやり連携
混んだ通勤電車での一コマだ。イズミさん(44歳)の目に入ったのは、前方に立っている年配の女性がもぞもぞとバッグを探っている状況。なにげなく見ていると、女性はバッグから出したものを隣の若い男性の手に握らせている。電車が揺れ、押し合ったりへし合ったりしている中、どうやら彼女は若い男性にティッシュを渡しているようだった。
「どうしましたと女性に声をかけると、『この方が鼻血出して』と小声で答えが返ってきた。あ、それならと私もバッグからティッシュを探し出して女性にパス、そして女性が男性へパス。その状況から何かを察した私の後ろにいた女性も『よかったらこれを』とティッシュを差し出してきました。ティッシュをつかんだ手だけが私の横からもヌッと出てきたので、思わずほほ笑んでしまいましたね」
ターミナル駅で降りるとき、男性はその年配女性と周りの人たちに「ありがとうございました」と言った。声は決して大きくなかったが、年配女性とイズミさんは目配せし合ったという。周りからも少しだけ温かい風が流れた。
「なんてことない光景だけど、今の時代、混んだ電車の中でこういうことがあったというのが、私自身も少しうれしかった。人の思いやりは捨てたものじゃない、誰かのために協力し合うのは、こっちがうれしくなることなんだと思って……」
鼻血を出した男性は遠慮がちだったようだが、周りが気づいてあげられてよかったとイズミさんは穏やかな笑みを浮かべた。
靴のリレー
ラッシュ時に降りる人の少ない駅で自分が降りなければいけないときは、それなりの技術が必要となる。サキさん(30歳)はつい先日のできごとを話してくれた。「いつもの出勤は、ターミナル駅で降りて乗り継ぎなんですが、その日はたまたまその手前にある駅で降りて顧客のところに寄ってから出勤することになっていたんです。ところがああいう駅では降りるのが至難の業。車内の奥の方に入ってしまったため、電車が止まる前から『すみません、降りますー』と叫びながらドアの方に向かっていきました。ところがもうじきドアにたどり着くというところで、パンプスが脱げてしまったんですよ。『ぎゃあ、靴が脱げた』と叫んだら、『拾ってあげるから、降りなさい』という男性の声が。とりあえず降りたら、私のパンプスが人の手を渡って無事にドアのところまでやってきて、ドアが閉まる寸前、私の手に。思わず中の人たちに『ありがとうございました!』と最敬礼しちゃいました」
ドアの近くの人が手を振ってくれ、サキさんも思わず笑顔になった。おそらく、車内の人たちも声には出さないまでも「よかったね」と思っただろう。混んだ電車に乗る者同士、こんな連携がとれたときは、穏やかな1日を過ごせそうだ。
10カ月の子を連れて電車に乗ったら
実家の父が倒れたと聞いて、あわてて10カ月になる子を連れて家を出て電車に飛び乗ったサヤカさん(34歳)。車内はラッシュのピークをはずれた時間帯とはいえ、まだまだ混雑していた。「夫はすでに出勤していたため、育休中の私が自力で何とかするしかない状態でした。もし車内で迷惑をかけたら、謝り倒しながら行こうと腹をくくって電車に乗ったんです。案の定、すやすや寝ていたはずの息子が急にぐずりだして、ギャン泣きではなかったけどかなりのボリュームで泣き出した。私は小声で『すみません』と小さくなっていました」
すると近くに立っていた年配の女性が『大丈夫よ』と声をかけた。顔を上げて周りを見渡すと、サヤカさんと息子を取り囲むように立っている人たちの多くがやさしい顔で見守っている。
「その後も私は小さくなっていましたが、息子がえへえへと笑い出したんです。顔を上げると、目の前にいた若い男性がヘン顔をしてあやしてくれていた。少し驚きましたが、彼は私を見てニッコリしてくれて」
言葉はなくとも
多くの言葉は行き交わなかったが、別の若い女性も息子と目が合うとニコッと笑ってくれていた。「いやあ、本当に助かりました。乗り換え駅で降りるとき、周りの人たちに、ありがとうございますと言いました。そのあとは下り電車だったので、それほど混むこともなく、無事に父が救急搬送された病院にたどりつけた。あのとき舌打ちされたり、こんな時間に乗るかねと言われたりしたら、完全に心が崩れてしまったと思う。私も電車内では人にやさしくしたいと思ったできごとでした」
誰もが乗りたくて混んだ電車にいるわけではない。出勤だったりサヤカさんのような特殊な事情だったり、いろいろあるのだ。だからこそささやかな思いやりが重要なのではないだろうか。








