オープンマリッジとは
オープンマリッジとは、1973年にアメリカの社会学者であるオニール夫妻によって提唱され、その著書『オープンマリッジ』は150万部も売れたという。これは夫婦が所有欲、独占欲、嫉妬心に妨げられず、自由に愛人を作り、社会的、性的に独立した個人を認め合う結婚のスタイルのことだ。とはいえ、いきなりこういう概念が出てきたわけではなく、1960年代後半、カウンターカルチャーの中心となったアメリカのヒッピーなどが関わった「性の革命」の一環である。彼らは、従来の社会の固定観念を打ち破り、個人の自由を掲げた。その多くは反ベトナム戦争を掲げ、ラブ&ピースを叫んだのだ。その流れの中にフリーセックスがあり、オニール夫妻の提唱へとつながっていく。
当時、日本でもフリーセックス、オープンマリッジが大きな話題になったが、そもそも日本では「性の革命」が起こりづらい状況だった。ウーマンリブ思想は入ってきていたが、夫の浮気を断罪するためピンクのヘルメットをかぶった女性たちが勤務先に押しかけるような活動(中ピ連)が目立ち、性の革命もフリーセックスも尻すぼみだった。結果、女性にとっての真の「性の自由」は得られていないままだ。
ヒッピーカルチャーが衰退するにつれ、オープンマリッジもあまり聞かれなくなっていったが、久々にそれが話題になったのは、4年前、俳優ウィル・スミス&ジェイダ・ピンケット・スミス夫妻がオープンマリッジを明言したときだった。ただ、日本ではこの話題はそれほど大きくはならなかった。
今回、影響力のあるヒカルさんが宣言したことで、突如、再びオープンマリッジに焦点が当たったのだろう。ただ、オープンマリッジをわざわざうたってはいなくても、実践している夫婦は世間が思っている以上に多くいる。
きっかけは夫の浮気
「結婚していても恋愛することはある。今はそう思っています」そう語るのはアケミさん(40歳)だ。12年前に結婚したときは、「一生、この人一人と添い遂げる」と思っていたし、それが当然だと考えていた。ところが3年目に夫の不倫が発覚した。泣いて責めるアケミさんに、夫は「相手に惹かれて、関係をもちたいと思った。でもきみへの愛情とはまったく違う質のものだ」と断言した。
「そのとき、私の中でも『そういうこともあるかも』と思ったんです。結婚したときは生涯、一人の人しか愛さないと決めてかかっていたけど、私もちょうど気になる男性がいたので。気になるからって恋愛関係になるかどうかは別の話で、それを行動に移さないのが大人だろうと言われればそれまでなんですが……。ただ、行動に移した夫がそれほどいけないことをしたのかと考えると、私の中にも迷いがあった。浮気をした夫、された妻という図式ではなく、夫も私もそこで自由になれたらいいのかもしれないなと」
恋に苦しむ私に夫は「頑張れ」と
夫との話し合いの中で、「互いに大人だから、責任をもって自由を貫いてみるのもいいかもしれない」という結論に至った。二人の間には現在8歳になる一人娘がいるが、共働きをしながら三人で仲よく暮らしてきたという。「その間、夫は何度か彼女がいる時期があったと思う。私も二人ほど付き合った男性がいます。互いに既婚だと分かった上で、一人とはセフレ感覚でしたが、もう一人とはかなり深い恋愛関係になってしまった。このときは夫に『恋してるんだけど苦しい』と愚痴ったこともあります。夫は話を聞いて、頑張れと励ましてくれた。もちろん、こんな話は友達にもできません。夫婦だけの秘密。世間的に認められないのは分かってる。でも夫婦が納得していればいいと思うんです」
だから今回のヒカルさんの宣言についても、それほど不快感はもっていないとアケミさんは言う。
「ノアさんがかわいそう、というのも偏見ですよね。本当に嫌なら動画に出てこなければいいし、あんなに経済力があるんだから即、離婚したっていいわけだから」
夫婦間のスパイスとなることも
自分の欲望を押し込めて生きるか、欲望をパートナーに伝えて共感はされなくても理解を得られるようにするか。こういった問題は、最初から価値観が一致するカップルばかりではないから、どちらかが相手を説得するしかないこともあるのだ。「私たちは今、外でどういう人と付き合っているかを詳細には知らせないというルールを作っています。でも夫は知りたがることがある。そのあたりはどう伝えるか、逆に夫婦間のスパイスとなっているのかもしれません」
二人だけの秘密の共有が、夫婦関係をより強固なものにしている気もするとアケミさんは言った。
「もちろん、これは私たちだけの感覚です。ただ、人はもっと自由に生きてもいいんじゃないかということは、夫といつも話しています。個人として自由であること、その中に家庭人としての自分も存在する。私自身はそう考えているんですが、もちろん世間に受け入れられることはないでしょうね」
世間と違う価値観をもつことは、世間から叩かれること。今の時代はそう思っていた方がいいのかもしれない。不寛容な時代である。