否定の言葉が今も脳内にこだまする
母親からずっと否定的な言葉を浴びせられて大きくなったというリカコさん(42歳)。不惑の年齢も過ぎたというのに、今もその「呪いの言葉」がよみがえって立ち止まってしまうことがある。「どうしてあれほど娘を否定できるのか、今思えば不思議なくらい。例えば運動会の前日、私は走るのが速かったから楽しみにしていたんですが、母は『あんたはそそっかしいからきっと転ぶ。気をつけなさいよ』と言うんです。頑張ってねとは決して言わない。スタート地点に立つと、“きっと転ぶ”という言葉だけが頭の中でこだまする。そして実際に転んでしまう。すると母は『だから気をつけろって言ったじゃない。みっともない』と言うわけです。今度はその“みっともない”が呪いの言葉となる。そういう悪循環でした」
その繰り返しで、母は何かと言うと「あんたはダメなんだから」と決めつける。母の言葉を断ち切るために一生懸命、勉強した。都内屈指の私立高校受験の朝、母はまたも「上には上があるから。落ちても落ち込まないで」と言った。どうしてそういうことを言うのよと、リカコさんは涙ながらに訴えた。
母を親だと思ったことはない
「結局、試験会場に着いても集中できず、落ちました。公立高校に行くことになりましたが、母は『親思いだね。学費が安いところに受かってよかった』と。親に愛されていないと悩む人は多いと思うけど、私の場合は、どうしてこの人は他人の神経を逆なですることばかり言うのかが不思議でたまらなかった。思春期以降、母を親だと思ったことはありません」大学生になると夜までアルバイトをしたり友人の家に泊まったりして、なるべく母と顔を合わせないようにした。父は優しい人だったが、母に牛耳られているので母を諫めてくれることもなかった。
「やっと一人暮らしを始めたときはホッとしました」
ここから自分の人生が始まると思いうれしかった。
母の呪いの言葉が邪魔をする人生
だが20年以上にわたる「母の呪いの言葉」は、人生の随所でよみがえってくると彼女は知ることになる。「就職試験を受けるときも『あんたは第一志望には落ちるよ』と大学受験で言われたときの言葉を思い出す。いくつか内定をもらって迷ったんですが、『どこに行っても、あんたはうまくやっていけないんじゃないかな』という言葉がこだまする。それらを振り切って、なんとか自分の意志を貫こうとするんですが、つまずくと『やっぱりね』という声が聞こえてくるような気がして」
ようやく少し抜け出せたと思ったのは、職場の上司や先輩に恵まれたからだ。仕事が自分を作ってくれたと彼女は考えている。30歳のとき母が急逝した。文句も言えないままいなくなった母を恨んだ。
「結婚なんてする気もなかったんですが、母の死の直後に知り合った男性と32歳のときに結婚しました。母への思いも全部聞いてくれて、一緒に生き直そうと言ってくれた。それでも子どもを持つのは怖かった」
夫に支えられながらの子育て
だが彼となら子育てを楽しめるかもしれない。そう思って36歳のときに出産、娘が産まれた。「褒めて育てなければいけないとガチガチに思うと、叱るべきときも叱れない。育児は地獄でした。夫がいなかったらできなかった。私は仕事に逃げました」
そんなある日、夫に言われた。この子も一人の人間なんだよ。リカコが本当ならお母さんにしてほしかったこと、言われたかったことをこの子に注げばいい、と。親だからどうこうじゃなくてさ、小さくてできないことがたくさんあるから、オレらはそれを助ければいいだけ。あとはこの子の人生だよ、と。
「号泣しました。そうだ、私は一人の人間として母に接してもらいたかった。否定じゃなくて、こういう人間なんだということを認めて受け入れてほしかったんだとやっと分かったんです」
母と同じことを言いたくなる気持ちを振り切って
それからは親としてすべきことは夫に任せ、彼女はひたすら娘と同じ目線で語り合った。それでも娘がわけも分からず駄々をこねたときなどは「あんたはどうせ何もできないんだから」という母の言葉が脳内から聞こえてきて、そのまま口に出したくなる。「そんなときは深呼吸して、娘をぎゅっと抱き締める。言葉は出さない。そうすることで娘も私も落ち着きます。やっとそこまでできるようになった」
娘はこの春、小学校に入った。仕事と家庭、オレたち頑張ってきたよねと夫が入学式のときに笑顔を向けてくれた。
「ここからがようやく自立スタートなのかもしれません。母の呪いの言葉は人生を狂わせる。でも知らず知らずのうちに自分もそうなりそうなときがある。それだけは忘れずにいようと思います」
最後にようやく、リカコさんは明るい笑顔を見せた。