官僚文学を生んだ霞ヶ関の風土
ここからは霞ヶ関文学を官僚文学と表記して、官僚文学が生まれた背景について解説してきます。官僚文学の起源については諸説ありますが、これまでの状況から考えると「官僚の無謬(むびょう)性」にあると思われます。
「無謬性」とは理論や判断に絶対に誤りがないことです。つまり「官僚の無謬性」とは、官僚の考えることや行うことには絶対に間違いがないという、いわば宗教の信仰に似た思い込みと言えるでしょう。
もちろん官僚が絶対に間違いを犯さない保証などありませんし、そんな根拠などどこにもありません。実際に「バブル崩壊」をはじめ、「失われた30年」「少子化」など、官僚の考えたものが間違っていたとしか言いようのないことが日本では数多く起きています。
一方、分かりやすいところで彼らが優れている点として、難しいテストで高得点を取る学力が挙げられますが、テストの能力と倫理観や仕事の遂行能力が必ずしも正比例するわけではないことは、現代を生きる人には説明不要でしょう。
間違いを指摘させない手法
官僚として霞ヶ関で働くようになると、自分たちのやることに間違いはないという伝統的体質にどっぷり浸ることになります。しかし人間である以上、絶対に間違いを犯さないことなど不可能です。そんな人間は存在しません。そこで考え出されたのが「間違いを指摘させない手法」です。
例を挙げると、
・聞かれたことにしか答えない
・必要最低限のことしか答えない
・文章にする際は後でどうとでも解釈できる表現で逃げ道を作る
・主語を曖昧にし、場合によっては主語を省き、責任の所在をうやむやにする
などですが、こうした手を打つことで追及から逃れやすくなります。
「ご飯論法」は官僚文学の集大成
このような手法の集大成とも言えるのが、たまに国会で問題になる、いわゆる「ご飯論法」です。端的に言うと「朝ご飯を食べたか?」と聞かれ、「食べていない」と答えた後、実はパンを食べていたことがバレると、「パンはお米ではないからご飯ではない。だから朝ご飯を食べていないというのはうそではない」という珍妙な論法です。官僚に言わせれば「朝ご飯」ではなく「朝食」と聞かなかったほうが悪いわけで、つまり物事の本質に基づいて正直に答えない自分のことは棚に上げ、聞いた側に落ち度があるかのように論点をすり替え、けむに巻くのです。
一般社会でこのようなことをしたら大問題になりますが、それをまんまとまかり通す“魔力”のようなものを官僚文学は持っているのです。
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