婚家に子どもたちを残すしかなかった
婚家には、完全に家父長制度の機能が働いていたとアケミさんは言う。彼女は家を追い出され、実家に戻るも親は家に入れてくれなかった。婚家に迷惑をかけた恥さらしとさえ言われたという。「そのまま中学時代からの親友のところに転がり込んで数週間、休ませてもらいました。その間、婚家と実家の間で離婚話が進み、私は判だけ押しました。小さな商店をやっていた実家は、婚家から援助してもらっていたんです。私を実家に入れなければ、孫を産んだ功績として援助は続けると言われたようですね」
2歳の娘と生まれたばかりの息子を残して、アケミさんはそのまま婚家に戻ることが許されなかった。「それが家のためでもある」と実母にも説得されたのだという。
25歳になったアケミさんは自らの命を絶つことも考えた。だが親友に説得され、生きることを決意した。上京し、必死で働いて、子どもたちのために貯金も続けた。いつか子どもたちに会えたらという思いだった。
「親友が私の子どもたちと接点をもってくれたので、子どもたちが中学に入るころからときどき手紙を託しました。先方は再婚したものの、子どもたちとは折り合いが悪かったようです」
最初は祖父母や父親が、家を出ていったアケミさんの悪口を子どもたちに吹き込んでいたようだが、親友はアケミさんの手紙を渡して「お母さんの気持ちをわかってあげて」と言い続けてくれた。
「それでも“私たちを捨てたおかあさん”という印象は払拭できなかったでしょうね。私も会うことを焦ってはいけないと思うようになったので、手紙も誕生日のときだけにするようにしました。子を残して出ていったのは本当のことだから、言い訳してもしかたがないし」
あの異常な環境で育った子どもたちと再会
辛かったが、「いつかは」という思いだけが彼女を支えていた。そして子どもたちが高校生のときに祖父母が相次いで亡くなり、元夫も大病をして家族が一気に変化を迎えた。「仕事は義弟が継いだようです。唯一よかったのは、子どもたちがふたりとも大学へ行けたこと。祖父母が生きていたら娘は大学には行かせてもらえなかったと思う。元夫は、大病をして実質的に仕事ができなくなってからは、信じられないくらい優しいおとうさんになったようです」
大学に入った娘から初めて手紙をもらったとき、アケミさんはあの環境で素直に育ったことに感動したという。おそらく義弟や義妹が味方についてくれたのだろうとも感じた。
そしてアケミさんがふたりに会えたのは3年前。娘が25歳、息子は23歳になっていた。
「元夫が亡くなったんです。ふたりはやはり父親への義理はあるからと、私に会うのを控えていたそうです。もちろんふたりには私への恨みもあったはず。だけど娘は『お母さんがいなかったら生まれてないわけだから』と言ってくれた」
娘は関西の会社に就職していたが、異動希望を出して昨年から東京で働いている。アケミさんは遠慮しているが、娘からはときどき「食事しない?」と連絡があるという。息子は大学を卒業後、都内の企業に就職したが、現在は遠方の支社で働いている。
「夫の再婚相手は結局、数年しか家にいなかったそうです。やはり舅姑に追い出されたんでしょう」
お母さんに恨みはないけど、あの家は恨んでる。娘がそう言ったことがある。子どもたちを連れて出られなかったことを今も後悔しているアケミさんだが、あの状況では子どもを連れて出たら心中するしかなかったかもしれないとも思っている。
「子どもを生かすためには、どうしようもない選択だった。同じような思いをしているおかあさんたちもいると思うけど、いつか事態は変わると信じるしかない。頑張ってほしいです」
共同親権について賛成反対が渦巻いているが、それ以前にDVに苦しむ母親が子どもを連れて家を出たとしても暮らしていける環境を作るほうが救われる人は多いのではないだろうか。