夫婦の関係性がおかしい
人との関係性は固定化しやすい。若いころに出会った大先輩は、たとえ社会的地位が逆転したとしても、あちらから見ればいつまでたっても「後輩」に過ぎない。それがいいときもあるが、先輩後輩の関係を夫婦にあてはめられるのはイサコさんにはつらかった。「夫の性格もあるんでしょうけど、他人にいろいろ言われるのが嫌なタイプ。言ってみれば協調性がない。しかも私にはいつまでたっても先輩風を吹かせる。私が妊娠してつわりでひどい目に合っているときも、『気合いが足りないんだよ、おまえは』といった調子。昭和かっていう感じですよ(笑)。ちゃんと勉強して理屈で考えてよと言いました。そうしたら『先輩に向かって敬意が足りない』ときた。本人は冗談のつもりなんでしょうけど、だんだんうっとうしくなっていきました」
子どもができてからも、「おい」「おまえ」は変わらない。人前でも妻を「おーい」と呼び、「返事くらいしろよ、おまえは」と体育会系のノリなのだ。
「子どもが生まれて新居を購入、越した先で仲良くなったご夫婦が遊びに来たときも、私がちょっとお茶を出すのが遅くなっただけで、『ったく、こいつはやることがとろいんですよ』と言い訳しつつ、『ちゃんと準備してなかったのか、おまえは』って。子どもがぐずってお茶の用意ができなかったんです。わかっているならやってくれればいいのだけど、夫は家のことはほとんどしない。共働きなのに。夫の発言を聞いて、友人夫婦の妻のほうはギョッとした顔をしていました」
「こいつ」「おまえ」呼びが子に伝染
その後も似たようなことが続き、しゃべれるようになった子どもが「ママ」の次に言ったのが「おまえ」だった。それを聞いたとき、イサコさんはこのままではいけないと痛感したという。「夫に、私をおまえというのはやめてほしいと言いました。本当は学生時代から嫌だった。見下されている感じがするし、そもそもあなたの言葉遣いは私に敬意を払っているとは思えないと、いつになく強気に出ました」
夫は「お」という感じで妻を見つめていたが、「敬意? 必要?」と暴言を吐いた。「どんな相手に対しても最低限の敬意は必要でしょ。私はあなたの子を産んだ女なんですけど」と冷たく言葉を投げつけた。
「私はあなたのモノじゃない。子どもも私たちのモノじゃない。みんなひとりの人間なんだよ。あなたは知らないかもしれないけど、私は親にも『おまえ』と言われたことはない。うちの母は、私があなたにおまえと言われているのが悲しいって前に言ってた」
すると夫は「うちじゃ、オヤジはおふくろにも子どもにも“おまえ”だったからなあ」と言いながらも、しばらく考え込んでからぽつりと言った。
「会社でも、もう後輩や新人くんをおまえとは言えないんだよ。オレは特別な親しみをこめて言ってたつもりだった」
夫が「おまえ」呼びをしなくなった結果
それが8年前のこと。それ以来、夫は「おまえ」とは言わなくなった。だからといって、夫の言動がすべてきちんと「敬意」に裏付けられているかといえばそんなことはない。「ただ、おまえと言わなくなったから、その後に続く言葉が前ほど乱暴ではなくなりました。夫自身、会社でセクハラやパワハラの講習を受けさせられているから、少しは気にしているみたいです。ただ、自ら意識を変えるのはむずかしいんでしょうね。私は、想像を働かせればいいんだよと言っていますが、3人兄弟の真ん中で、お父さんに柔道を習っていたという、男社会にどっぷり浸って育った夫からすると、意識の変え方自体がわからないのかもしれない」
最初は夫を変えることしか考えていなかったイサコさんだが、その後、パートナーの生育歴など背景も考慮、少しだけ「ゆるい目で見よう」と思えるようになった。
「夫は最近、子どもの前では“ママ”と言いますが、ふたりだけだと“イサコちゃん”と言うんです。そのうち、子どもの前でもイサコちゃんと呼ばせようと思っています」
たかが呼び方、されど呼び方なのではないだろうか。