家にひきこもる母
ノリエさん一家と同居するようになった母は、しばらくは疲れたのか寝てばかりいたという。70代半ばで環境が変わったのだからしかたがないと、ノリエさんもゆるやかに見守っていた。「ただ、1カ月たっても外へ出ようとしないんです。母は歌舞伎を見たいと言っていたから、今月はこんなのやってるよ、行ってみたらといっても生返事をするばかり。じゃあと、娘と一緒に3人で近所を散歩して、地域でこんなサークルがあるということもいろいろ教えたんですが興味がないみたいで」
マンション内には同世代の女性もいるので紹介もした。茶飲み友だちを見つけたいならと、地域の老人会へも連れていったが、母は気乗りがしないようだった。
「隣の駅前にはスポーツジムもあるし、やりたいことは何でもできるんだから何か見つけたほうがいいと言いました。少しずつ家事はやってくれていましたが、なんだか元気がないので心配だった」
ノリエさんの知っている母ではなかった。年齢のせいなのか、はたまたどこか悪いのか。弟にメールでそんなことを話すと、弟は「お母さんって、もともと人見知りだよ」と返事を寄越した。
「びっくりしました。弟の目にはそういう母だったのか、と。私と弟は8歳離れているんですよ。だから私が家を出たとき、弟はまだ10歳。弟が10代のときに見てきた母は、人見知りであまり外に出ることもなく、父の陰に隠れて生きているような人だったらしいんです。私は授業参観に来て、他のお母さんと話している姿とか笑顔が印象的だったんですけど。弟に言わせると、私が進学で家を出てからおかあさんは元気がなくなったって。今さらそんなことを言われてもね……」
人見知りで引っ込み思案な母にショック
いくら子どもを愛していても、子の人生と自分の人生は違う。ノリエさん自身、そう思って子どもを育てているので、独立した娘を恋しがって元気をなくす母の気持ちがわからなかった。「それから意識して母に接していたんですが、確かに母は私が誘えばついてくる。だけど自分から何かをしたい、どこかに行きたいとはいわないんです。ただ、私も忙しいから、母にべったり付き添っているわけにはいかない。そこをわかってほしいし、母は今、自由なんだからその自由を謳歌してほしいと話したんです」
すると母は「人間って何のために生きてるんだろうね」とポツリと言った。ノリエさんは「何のためなんて考えなくていいの。生きてるうちは楽しめばいいの」と言い放った。
「あんたは強いねと母はため息をつきました。やはり30年も離れていると、お互い、こういう人だと思い込んで誤解が生じているんでしょうね。もともと母は人見知りで引っ込み思案なのかもしれない。でも、そのままでいたら楽しくないのもわかっていると思うんです。あるとき、母が近所の人に挨拶されて、声も出さずに会釈するだけなのを見てしまった。そもそも人付き合いさえできないのかと、けっこう私は私でショックでしたよ」
夫は気を遣って、週末、母をドライブに誘ってくれる。少しずつ今の生活に慣れることが大事。日々、楽しいと思えるようにしてあげようと言ってくれる夫には感謝しかないと彼女は言った。夫にそこまで深い優しさがあるとは思っていなかったらしい。それが思わぬ副産物だったかもと彼女はようやく笑顔を見せた。