私に意地悪だった母は弱っていた
母はかつてのように意地悪な目で、マナさんを見ることはなかった。それだけ弱っていたのかもしれない。「何か食べていけばと言われて出てきたのは、レンジでチンするごはんと佃煮、インスタント味噌汁でした。いつもこんな食生活をしているのかと言ったら、たまには肉や魚も食べるけどねと言いましたが、あれは嘘だったと思う。それなりに年金もあるので、食べるものが買えないわけじゃないはずなんですが」
それから数週間後、姉からまた連絡があった。母が病院に運ばれたから、すぐ行って、と。行って医師から話を聞くと、自宅近くの外で倒れていたのを見つけた人が救急車を呼んでくれたのだという。
「倒れた原因は貧血だったようですが、医師から『そもそも栄養失調』と言われました。高齢者にそういうことがあるとは知っていたけど、自分の母親がそう言われるとは思ってなかった」
母はすぐに退院できたのだが、それを機に、地域の包括センターとつながった。母が炊事をやる気がないので毎日、お弁当を届けてもらうことにした。
「放っておくわけにもいかないので、週に1回くらい様子を見にいくことにしました。母がぽつりぽつりと話したところによると、パートをやめてからやはり生活に張りがなくなったみたいですね。地域のカルチャースクールで書道や陶芸をやってみたけど人間関係がよくなくて行く気がしなくなったとも言ってた。おそらく母が周りに嫌われたんだと思います。遠慮なく文句ばかり言う人でしたから。その後はさすがに元気がなくなり、さらにコロナ禍が重なって家にこもっているうちに足腰が弱ったんでしょう」
「あんたは昔から冷たかった」と母は泣いた
自業自得だとマナさんは思ってしまったそうだ。そういえば中学生のころ、母が近所の人ともめごとを起こして警察が来たことがあった。自分独自の正義感を振り回して周りを不快にしたことが多々あったと思い出した。「ただ、母はほとんど昔のことを覚えていません。忘れたふりをしているのか都合の悪いことは覚えていないのかわからないけど。どっちにしても『自分の生き方は自分しか決められないから。食生活だけは少し改善できたけど、まだ体が悪いわけでもないから、今後、どうやって生きるかは自分で決めて』と言いました。すると母は急に泣き出して。あんたは昔から冷たかった、と。それはおかあさんが私をかわいがってくれなかったからでしょうと言い合いになり、虚しくなって家を出ました」
10代のころとたいして変わらないやりとりだった。あれからずっとひとりで仕事をしながら生きてきて、今になってまた母親に煩わされるとは思ってもいなかった。
「姉に、やっぱり私は無理だから、母を施設に入れるなりなんなり好きなようにしてと連絡しました。『育ててもらった恩を忘れたの』と姉が非難したので、『子をもうけたのは親の都合でしょ。私は別に恩なんて感じてないし、知らないよ』と言い放ってしまった。姉はケアマネさんと話し合って、どうやら施設を探し始めているようです。どこに決まろうが私はあまり関わりたくない」
親の介護を放棄したと姉には言われたが、そうやって「罪悪感を植えつけようとすることじたいに腹が立つ」とマナさんは言う。それでも良心が痛まないわけではない。そしてそんな自分にイライラすると彼女はやりきれないような表情で言った。