実際に沖縄県勢の試合当日は、タクシーも自家用車も目に見えて少なくなりますし、仕事の電話もピタッとかかってこなくなります。もしその日に用事を設定しようものなら、「空気を読めないやつ」というレッテルを張られかねません。
あるとき県外からの移住者が、その時間帯に仕事のアポを入れようとしたところ「あ、その日は〇〇高校の試合があるからやめておいたほうがいいよ」と先輩にアドバイスされて驚いていました。それぐらい沖縄県民は、みんなで一丸となって沖縄の代表校を応援するのです!
沖縄の歩んだ歴史とリンクする「甲子園への道」
太平洋戦争のあと、沖縄は米軍の統治下に置かれていました。そのため、日本本土で1946年に再開された「全国中等学校優勝野球大会」の予選に参加することはできず、1952年にやっと全国大会への予選出場が認められたという歴史があります。甲子園に沖縄の代表校が進むことができたのは1958年。沖縄県勢で最初に甲子園の土を踏んだのは、首里高校の野球部でした。当時、距離だけではなく存在すら日本から遠く離れていた「沖縄」の高校球児が日本本土で一生懸命頑張っている姿が、沖縄県民の心をつかんだであろうことは想像に難くありません。しかしその後、球児たちは悔しい思いをすることになります。 当時の沖縄は米軍統治下にあったため、日本では外国扱いとなっていました。本土へ渡航するには、パスポートが必要だったそうです。そのため、植物防疫法に触れるということで、甲子園の土を持ち帰ることができないと発覚。船で移動をしていたため、球児たちが持ち帰った甲子園の土は、沖縄に到着する前に海に捨てられてしまったのです。仕方がないこととはいえ、さぞつらい思いをしたことでしょう……。
本土復帰から27年後、ついにそのときが!
その後、1972年に沖縄は本土復帰を果たすことになりますが、高校野球のレベルにはまだ差があり、なかなか良い成績を残すことができずにいました。しかしそんな状況を打破したのが、沖縄水産高校。沖縄の高校野球のレベルを飛躍的にアップさせた立役者でもある栽監督率いる沖縄水産高校は、1999年、1991年と2年連続で準優勝という輝かしい成績を残し、沖水旋風を巻き起こします。そしてついに、本土復帰から27年目の1999年春の大会で、沖縄尚学高校が悲願の初優勝を果たすこととなるのです。ちなみにこのときの沖縄尚学高校の監督は、栽監督の教え子。そんなご縁にも、沖縄の野球人たちがつないできた、全国優勝への強い執念のようなものを感じます。
活躍する沖縄県勢は島の希望の星!
戦争に翻弄され、困難な歴史を歩むことを強いられ、やっと日本本土に復帰を果たしたものの、沖縄は社会的にさまざまなシーンで、本土に比べて遅れをとっていました。「いつか本土と肩を並べたい」という思いを抱いて頑張ってきた沖縄の人々にとって、沖縄の高校が全国優勝を果たしたことは、エポックメイキングな出来事だったのではないでしょうか。だからこそ、沖縄人にとって高校野球はただの野球にあらず。その歴史に沖縄が歩んだ苦難の歴史を重ね、応援し、その成功に希望を見出してきたからこそ、こんなにも高校野球を愛しているのではないか。そう筆者は感じます。
現在までに沖縄県勢は、春夏あわせて甲子園で4回優勝するなど輝かしい成績を残し、全国でも野球の強い県として知られるようにもなりました。また近年では、沖縄出身のプロ野球選手もどんどん活躍しており、地元の子どもたちに夢を与えています。これからもきっと、沖縄県民は甲子園での優勝を夢見て、沖縄県勢を応援し続けることでしょう。
<参考>
内閣府 沖縄県民を熱狂させる野球
一般財団法人 沖縄県高等学校野球連盟