硫化水素はただの危険な毒ガスではない? 記憶形成における役割とは
「硫化水素」と聞くと、「危険な毒ガス」をイメージする人が多いと思います。火山の噴火口の近くや温泉に漂う卵が腐ったような嫌なにおいは、よく「硫黄くさい」と表現されますが、実は硫黄にはにおいはありません。あの独特なにおいは、「硫化水素」によるものです。硫化水素は、私たち人間にとって極めて毒性の強い気体で、濃度によっては吸い込むだけで死んでしまうこともあります。不幸なことに、硫化水素が自死に利用され、社会問題になったこともあります。そんな硫化水素と記憶力の関係について、新たに明らかになったことをご紹介します。
「硫化水素で記憶力が向上する」ことが明らかになった研究と発表の経緯
「硫化水素が記憶力をアップさせる」という話は、にわかには信じられないかもしれません。これは筆者自身が研究を通じて発見し、論文として発表したものですが、わかりやすく解説したいと思います。筆者は1993~1995年の約2年間、アメリカのソーク生物学研究所に研究留学し、脳で記憶が作られる分子メカニズムの研究を行っていました。とくに注目していたのは、当時話題となっていた一酸化窒素のようなガス性情報伝達分子の役割についてです。あるセミナーでその研究成果の一部を紹介したところ、「一酸化窒素以外の毒ガスにも同じような作用があるかもしれない。硫化水素はどうだろう」という質問が出ました。
硫化水素は、あくまで環境中に存在する毒ガスであり、そんな物質が私たちの体の中で何か特別な役割を果たしているとは、当時は誰も思いつかず、まったく研究されていませんでした。しかし、可能性はあり得るかもしれないと考え、とくに私自分が興味をもっていた記憶のメカニズムに硫化水素が関係しているかどうかを追究することにしました。具体的には、記憶形成に中心的役割を果たす脳部位の「海馬」に注目して調べたところ、ネズミの海馬に硫化水素を作り出す酵素が存在することが分かったのです。また、海馬を取り出してその電気活動を詳しく解析する実験を行ったことろ、微量の硫化水素を与えると記憶形成にかかわるしくみが促進されることもわかりました。この発見については、アメリカの神経科学雑誌に論文発表しています(J Neurosci, 16(3): 1066-1071, 1996)。
さらに最近、武蔵野大学の赤石准教授と筆者を含めた研究チームは、硫化水素が記憶形成に必要な役割を果たしていることを裏付ける新しい証拠を得ました。硫化水素を作り出す酵素を欠損したネズミを人工的に作り出したところ、海馬における記憶形成のしくみがうまく働かなくなることが分かったのです(Sci Rep, 13(1): 17663, 2023)。
私たちの脳における硫化水素の役割
硫化水素は、単なる毒ガスではなく、古代生物が生きるために利用していたのと同じように、私たち人間が生きていくために必要な物質としても機能しているようです。とくに脳の中では、硫化水素が働いてくれないと、物事が記憶できなくなるのです。改めて考えてみると、現在の地球には水が豊富に存在していて、私たちは水に頼って生きていますが、地球の始まりの古代では、酸素や水よりも硫化水素の方がたくさん存在していて、多くの生命が硫化水素を利用して生きていました。今の私たちとは真逆で、古代生物にとっては酸素の方が猛毒だったのです。その名残りで、今の地球になっても、火山帯などには硫化水素に頼って生きている生物がいます。
私たちの脳の中で、硫化水素が大切な役割を果たしているというのも、地球が歩んできた歴史を反映しているのかもしれません。生命って不思議ですね。