「立ってしないで」と言うようになったら
タクジさんはヨウコさんに恋をした。もちろん、不倫が家庭や職場にバレたら危険なことも承知していた。ヨウコさんは「職場ではあくまでも先輩と後輩の立場を崩さない、でも以前からよく話はしていたから、不自然に避けるのもおかしい。自然にしていましょう」と言った。職場不倫でビクビクしていた彼だが、腹が据わった。バレたらどうしようと考えず、「バレないように彼女と会う」のが重要だと気持ちを切り替えた。
「彼女がおもしろいことを言ったんです。『もし私が、これからは座ってトイレを使ってと言うようになったら、それは別れの言葉に近い』と。つまり『立ってトイレをしてもいいというのが愛情のひとつ。あなたが入ったトイレを掃除するのが嫌だなと思ったら、もうそれほど好きじゃないということ』だと」
もちろん、誰にでも当てはまる話ではない。愛しているけどトイレは汚さないでほしいと思う女性もいる。立ってするなら自分で全部掃除してねと言う女性もいるだろう。あくまでもヨウコさんがそういうスタンスだっただけだ。
「不倫だし、職場で顔を合わせるのだから、直接別れを言うような状況になりたくなかったんでしょうね。僕はわかったと言いました」
ふたりでよく出かけた。彼女の自宅近くの居酒屋では常連になった。店主は「わけあり」であることを察していたようだが、いつも明るく声をかけてくれた。
「小学生の子がふたりいるんですが、妻と子どもたちが密着していて、なんとなく家庭内に居場所がないなとさみしかった。それを埋めてくれたのがヨウコであり、行きつけの居酒屋でした。自分の居場所ができた感覚がありましたね」
外泊こそしなかったが週に1、2回は帰宅が遅くなった。それでも妻はなにも言わない。冷たいわけではないのだが、いつしか夫への関心はなくなっていたようだ。
彼女の部屋からの帰り際、突然に
ヨウコさんとつきあって1年半がたったころ、彼女の部屋に行くと、帰り際に突然言われた。「これからはうちのトイレで座ってしてね、と。もう来るなということでした。こちらは家庭のある身、すがるわけにはいかない。でも理由が知りたかった。彼女は理由は言えないと」
どうしようもなかった。翌日から、ふたりは先輩と後輩に戻った。だが彼女の顔を見るたび、彼は狂おしい気持ちにかられてしまう。部署の異動を希望し、1年後に違うフロアでの勤務となった。
「そしてそのころ、実は妻が当時、ヨウコに直接連絡をして『別れてほしい』と頭を下げていたことを知りました。僕の妹が妻と仲がいいんです。妻との仲をなんとなく愚痴ったら、今だから言うけどと妹が僕に白状した。あんないい奥さんいないよと言われました。ヨウコにすまないことをしたと思ったけど、蒸し返すわけにもいかない。仕事に集中するしかないと思いました」
彼は今でも、トイレに入ると「立ってしていいですよ」というヨウコさんの声を思い出す。そのヨウコさんも昨年、転職していった。