人間関係

小学生の頃からずっと。“家族に尽くす装置”であり続けた私がようやくつかんだ「出生の秘密」

小学生の頃から祖母の介護をし、自分は成績優秀だったにもかかわらず大学進学をあきらめ弟妹のめんどうを見てきた女性。なぜ自分がここまで犠牲を求められるかの原因を探り当て、家族と絶縁しようやく自分のために生きていくことを決意した。

亀山 早苗

執筆者:亀山 早苗

恋愛ガイド

いくつになっても人生はやり直せるのか。多くの人が一度はそう思ったことがあるのではないだろうか。30代半ばのサラリーマンが「もう先が見えた、詰んだ」と言ってしまうこの時代、それでも「気持ちを切り替えて頑張る」と話す女性がいる。
これからは自分のために生きていきたい

これからは自分のために生きていきたい

やっとわかった自分の過去と母の気持ち

「私が母の本当の子ではないとわかったのは高校生のときでした」

リリコさん(38歳)はそう話す。高校時代、交換留学でアメリカに行くことになり、パスポートを作るために初めて戸籍謄本を見た。彼女は「養女」となっていた。

「それまでも何度か、母の子ではないんじゃないかと思ったことがあったんです。うちには父方の祖母がいたんですが、私が小学生のときから足が悪くて不自由していた。祖母をお風呂に入れるのは私でした。その後、徐々に動けなくなっていく祖母をずっと介護していたのも私。中学時代はクラブ活動もせず、祖母のめんどうを見ていました。母が専業主婦だったにもかかわらずです」

彼女は一度、見てしまったことがある。母が祖母の枕を蹴飛ばしたのを。それ以来、母から祖母を守るつもりで介護していた。

「祖母と母の間に何があったのかわからないけど、祖母は私には優しかった。一方で母は私には家事や弟妹のめんどうをみろと命令したり、とにかく怖い存在でした。たぶん、母の子ではないんだろうと小学生時代から思っていた」

中学3年生のときに祖母が亡くなった。入院していた病院に、父母はほとんど来ず、毎日リリコさんが見舞いに行っていた。面会終了時刻まで祖母のそばにいたかったが、夕食の準備があるため帰らざるを得なかった。

「祖母の最後の言葉は、『リリちゃん、ごめんね』でした。何を謝ったのか……。父は最期を看取りましたが、母はその場にいなかった」

そのあたりの記憶は少し曖昧だと言いながらも、母が冷たかった印象だけははっきり覚えていると彼女は言った。

「私が養女であることはわかったんですが、父も母もそれについて説明してくれなかった。私もあえて聞かなかった。聞ける雰囲気ではなかったような気がします」

>夢をあきらめ、家のために尽くしたが……
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