人間関係

母は「青い服が着たい」という小学生の私を叱り続けた…そして悟った「毒母の毒は消えない」こと

【毒親の毒は消えない #2】虐待されたわけではない、ただ母親の「過干渉」に苦しめられただけ……。それでも「今ならはっきりと、毒母と言える」といって、40代女性がその「毒」を振り返った。

亀山 早苗

執筆者:亀山 早苗

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「毒親」の話題は尽きない。多かれ少なかれ、娘は母との葛藤を抱えがちだが、大人になればそれも「気にしない」ようになり、年を取った母を受け入れられると思いやすい。だが、「相性が合わない」のは解消できないし、「毒母の毒は消えない」もの。親子だからわかりあえるということはあり得ない。

今なら断言できる、母は毒母なのだと

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「私は虐待されたわけではないし、母の過干渉に苦しめられただけ。いわゆる『毒母』という括りに入れたら本当につらい思いをした人に申し訳ないと思っていたんです。でも今ならはっきり言えますね、母は毒母だと」

眉間に深いしわをよせてそう言うのは、カホさん(40歳)だ。物心ついたときから母の言葉がうるさかった。

「朝になると学校に着ていく服は母が用意している。今日は青い服を着たいと思っても、母がピンクを用意していたら着なければならない。青いのが着たいと言ったら、ずっと説教されますから。遠足に持っていくおやつも自分で選べない。それどころか友だちの家に遊びに行くと言うと、『あの子はダメ』とドタキャンさせられる。『お母さんは、あなたのために言ってるのよ』が口癖でした」

カホさんには3歳下の妹がいるが、母は妹にはあっさりと接していた。「あの子はあてにならないの、頭も悪いしきれいじゃない。カホは頭がいいし、お母さんの期待を裏切らない」「お母さんの味方はカホだけ」「おかあさんが愛しているのはカホだけ」。カホさんはそう言われて育った。

「そのころはそういうものだと思って、妹を陰でいじめたりしていました。私自身が歪んでいた。何かがおかしい、息苦しいと自分で気づいたのは中学生になってから。部活でバレーボール部に入ったんですが、母は毎日迎えに来るんです。徒歩10分の学校にですよ。しかも陰に隠れている。私が帰りにどういう友だちと一緒に帰るのか、途中で買い食いしないかなど見張っているんです」

途中、和菓子店の友人の自宅がある。みんなでそこへ寄ってお団子を1本買って食べたこともあるのだが、帰ると母が鬼のような顔をして玄関に立っていた。

「寄り道して買い食いするような子に育てた覚えはない、と仁王立ちでした。何がいけないのかわからなかったけど、ひたすら謝りました。翌日、友人にその話をしたら『なんで? うちのお母さんはよかったねって言ってたよ。しかもお団子、値段まけてもらったじゃない? 今度買いに行かなくちゃねって』と言われて、そうだよ、それが普通の反応だよと感じたんです」

受験する高校は母が選んだ。カホさんは公立高校に行きたかったが、母が選んできたのは私立のいわゆる「お嬢様学校」ばかり。

「今思えば、父親不在の家でしたね。出張が多かったけど、実際には浮気もしていたんじゃないかと思います。たまに帰ってくれば私たちとは話しても母とは会話がなかった。だから母は暴走したんでしょう」

母に内緒で父と相談、公立学校も受験した。母が決めた学校は受験すらしなかった。無事に公立高校に合格、他には受験していないことがわかったとき、母は号泣して3日ほど寝込んだ。

「そのころには母がうっとうしくてたまらなかった。高校を出たら大学は遠方に行こうと決めていました」

脅したり泣いたりするのが常套手段

「あとは母を振り切ることしか考えていなかった。でも遠方の大学を受験しにいこうとしたとき、母が駅の階段から落ちて骨折したんです。父が出張中、妹がちょうど短期留学中で、誰かに頼むこともできなかった」

足を骨折した母親を見捨てることはできなかった。泣く泣く遠方の大学を諦めた彼女は、家から通える都内の大学に進んだ。

「そこからは反抗しては、母が泣いたり脅したりして私が折れるの繰り返し。妹は高校を出ると、さっさと遠くの大学へ行ってしまった。ほぼ母とふたり暮らしですが、本当につらかった」

ときどき、つきあっている恋人の家に泊まった。母が彼の家に怒鳴り込んできたこともある。突き放そうとしながら突き放せなかった。

「母がかわいそうというのもあったけど、自分の暴力性も怖かった。一度冷たくしたら、次は殴ってしまいそうだったし、次は刺してしまうかもしれない。いつそういうことになってもおかしくなかったから、とにかく顔を合わせないようにしたり話を聞かないようにしたりするしかなかった」

就職してようやく物理的に離れることができた。最初の勤務地が関西だったからだ。だが母は週末は帰ってこいとうるさい。月に1度は帰ったが、友人と会ったりして母との時間はとらないようにしていた。母は静かに泣いていた。

「いちばん波風たてずに離れるのは結婚しかない。ちょうど友人の紹介で会った人とつきあって1年ほどたったので、25歳で結婚しました。その直後、彼が東京に転勤することになったんです。会社に話して、私も東京勤務にしてもらえて」

ひとり娘を授かり、共働きで育てている。子どもに過干渉にならないためにも彼女はずっと仕事をすると決めていた。母は相変わらずしょっちゅう連絡してきたが、忙しいからとLINE以外は応じないようにしていた。

「ところが3年前です。父が急逝し、母はひとりきりになった。仲がいいわけではなかったけど、やはり配偶者がいなくなると寂しいのかげっそり痩せて。夫が見るに見かねて『うちで一緒に暮らしませんか』と言ってしまったんです。そのことで夫とはケンカになりましたが、夫は親切で言っただけなので責めるわけにもいかなくて」

大学卒業以来、15年ぶりの同居生活。さすがに母も変わっただろうと思っていたが、それはどうやら甘かったようだ。

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