変わる、学校教育の在り方
子どもを持つ親の世代から見ると、現代の小学校の様子は随分と変わりました。例えば、最近では「あだ名」や「呼び捨て」を禁止し、性別や学年を問わず平等に「さん付けを推奨」する小学校が増加しているとされています。個人的な特徴を揶揄するようなあだ名がいじめにつながるケースがあるためという理由からだそうですが、他方で「さん付け」は円滑なコミュニケーションを阻む恐れがあるなど、賛否両論があることも報じられています。このほか、学校現場の在り方で賛否が分かれる場面として「競争のない運動会」や「順位をつけない運動会」があります。 1970年代には関西でこのような「平等運動会」が始まったものの当時は定着しなかった(※1)とされていますが、その後、1996年にNHKの「クローズアップ現代」で『競争のない運動会~順位をつけない教育改革の波紋~』という番組が放送されています。
この番組では、当時すすめられた教育改革により、運動会から徒競走や棒倒しがなくなり、勝負や順位をつけないゲームが増えていることや、教育現場のとまどい等がレポートされ、大きな反響がありました。このように「競争のない運動会」自体は、かなり前から話題にのぼってはいました。
この番組が放送された時代以降、「競争のない運動会」は徐々に広まり定着していったものと思われますが、これに違和感を覚える保護者は多いようです。
「競争のない運動会」に保護者は違和感
All About編集部が子どもを持つ全国の男女を対象に実施した「運動会に関するアンケート調査」(調査期間2022年5月2~10日、有効回答数318人)によれば、徒競走で“順位をつけない”ことなど昨今の小学校の運動会で見られる光景について否定的なコメントが多く寄せられました。例えば「徒競走で全員が手をつないで同時にゴールしているのを見てやりすぎではないかと感じた(34歳男性/小2)」とか、「順位をつけずにゴールさせるのでは徒競走を実施すること自体必要ないのでは(39歳女性/小4)」、「徒競走、リレーと言っているのに順位を付けず全員頑張った、という無駄な平等。早く走れる子がやる気をなくしていたので個性を伸ばすなら向いていない指導だと思う(38歳女性/中1・小3)」、「順位をつけない競争。順位をつけて悔しい思いをすることや、得意なことを皆に認められる晴れの舞台、足が遅いから恥ずかしいという気持ちを経験するのは大事なことだと思うので、勉強でもかけっこでも順位はあっていいと思う(42歳女性/小5)」などの意見です。
「絶対評価」が主流の今、当然の流れ?
しかしながら、これは運動会や体育に限った話ではなく、国語や算数などでも従来の様子とは変わっています。以前の成績の付け方は「相対評価」(クラス全体の中で自分がどのくらいの割合に入っているか)で、多くの場合は5段階評価で行われていましたが、現在は「絶対評価」(周りの児童と比べず、自分の成績が以前よりもどのくらい伸びた・落ちたか)によって評価する方法が主流になっています。要するに、クラスの中で上位・下位を決める成績評価ではなく、個人の頑張りや成長を判定する方法がとられています。こう見ていくと、大勢の児童や保護者の前で「足が遅い」ことや「運動が下手(苦手)」など結果が露わになる運動会の種目が「競争のない」内容に配慮されていることは、時代の流れとしては当然なのかもしれません。
他方で、子どもはいずれ大人になり、世の中は平等ではないことを知ります。理不尽な経験をする日がやってくるかもしれません。競争社会の荒波で揉まれる子どもの将来を思う親の気持ちとしては、「競争のない運動会」に対してモヤモヤする気持ちになるのも、また当然でしょう。
そもそもスポーツの本質は「遊び」
そもそも、スポーツの本質は「遊び」であり、その語源(deportare/デポルターレ)も遊びや気晴らしを意味しています。フランスの哲学者ロジェ・カイヨワは「遊びと人間」において「遊び」を以下の4つに類型し定義(※2)しています。- アゴン:競争(スポーツ、チェスなど)
- アレア:運(ギャンブル、トランプなど)
- ミミクリ:模倣(演劇、ごっこ遊びなど)
- イリンクス:目眩(遊園地、飲酒など)
カイヨワが1番目に挙げているように、競争(アゴン)は遊びの重要な要素です。そして、カイヨワは『遊びは「遊び」そのものとして取り扱うこと』と述べています。すなわち、「何かの目的のために行うものは、もはや遊びではなくなっている」ということです。
子どもたちが「純粋にかけっこ競争を楽しむ」ことを、大人が阻害しているとすれば運動会は「遊び」(スポーツ)でなくなってしまっています。
逆に「大人になってからの競争社会に適応するという目的のためにも、徒競走は順位付けする必要がある」とした場合も同様に「遊び」ではなくなります。
カイヨワは「遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的で愉快な楽しみという性質を失ってしまう」と説明しています。要するに、強制されず、本人自身が楽しむことが遊戯の絶対条件であるとしています。ですから、遊戯としてのスポーツは非強制的で自発的で自由な活動である必要があります。
しかし、現在の学校教育の枠組みでは、スポーツが持つこのような遊戯の性質とは相容れません。『なぜスポーツは学校教育へ結びつけられるのか -運動部活動の成立と〈子どもの自主性〉の理念-』(※3)のなかで中澤篤史氏は「仮に子ども自身が望まない場合でも、学校や教師は、子どもが生活や仕事に有用な知識や能力を得られるように、義務として勉強を強制したり、しつけや指導として介入する。そのように、一般的に学校教育は遊戯を認めない」とし、さらに「遊戯としてのスポーツが、その遊戯の性質と相容れない学校教育へ結びつけられることに、原理的な矛盾があるようにも思われてくる」と論じています。
徒競走の「早い・遅い」は順位がなくても一目瞭然
筆者が最近見た、東京都内の公立小学校の運動会では、徒競走での最終順位は付けないものの、徒競走を走る5名は歯をくいしばって競争し、レースの都度、1位の子どもがゴールテープを切る光景が見られました。要するに、順位をつけようがつけまいが、誰が一番早かったか、逆に誰が一番遅かったかは一目瞭然です。「あなたは何位」と決めないでも、やっている内容(徒競走)自体は順位をつけていることとあまり変わらないように思います。
ただ、「ゴールの手前でスピードを合わせて全員で手を繋いでゴールする」というような運動会が本当にあるとすれば、それには賛同できません。その子どもが持つ今の力を、精一杯発揮するのが運動会であり、誰かが手を抜いてゴールすることを推奨するような姿に多くの人は違和感を覚えるでしょう。
「美術」や「音楽」などとのバランスも必要
前述のAll About編集部の調査は「1位、2位、3位、4位……」といった順位をつけない徒競走についての話題でした。この点について「体育が得意な子どもが輝く場を奪っている」という類いの意見がよくあります。仮に「音楽大会(歌唱大会)」があり、歌がうまい順に1位から最下位まで順位が出るという運動会のような大会があったとします。歌声を聞けば、誰が上手で誰が下手だったかは、順位をつけるまでもなくわかるでしょう。
順位づけの結果、最下位になった子どもは、会場の何とも言えない雰囲気を感じた末に「あなたは歌が最も下手」という現実を改めて突きつけられるわけです。うまく歌えた子どもは嬉しいでしょう。しかし、うまく歌えない子どもはさらに寂しい気持ちになるのではないでしょうか。
運動会の徒競走で観客に拍手されながら、最後にゴールする子どもも同じです。
筆者は美術大学の教授をしていますが、美大には体育やスポーツに苦手意識や嫌な思い出を持つ学生が多いと感じています。
徒競走で順位をつけないことが「体育が得意な子どもが輝く場を奪っている」のならば、体育以外の、たとえば美術や音楽を得意とする子どもが輝ける場もあるべきだと思います。
<参考文献>
※1:島田博司「『競争のない運動会』を考えるためにⅡ」(甲南女子大学研究紀要第41号人間科学編、2005年)
※2:ロジェ・カイヨワ、 多田道太郎 (翻訳)「遊びと人間」(講談社学術文庫、1990年)
※3:中澤篤史「なぜスポーツは学校教育へ結びつけられるのか -運動部活動の成立と〈子どもの自主性〉の理念-」(一橋大学スポーツ研究Vol.32、2013年)
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