夫が「会社、辞めた」
サエリさん(38歳)は30歳のとき、妊娠を機につきあっていた同い年の男性と結婚した。その夫が突然、会社を辞めたと言ったのは、出産して退院したその日だった。「どうやら夫の会社は吸収合併され、夫はそのあおりを受けて転勤を打診されていたようです。それを断ったら閑職に追いやられそうになったので退職した、と。どうしてせめて一言、相談してくれなかったのと言ったら、『相談すればきみが何とかしてくれたの?』って。あのあたりからですね、夫との間に亀裂が入ったのは」
夫はすぐに仕事を探すと言いながら、家でゴロゴロしている。退院して間がないサエリさんは、それなら家の中のことをやってほしいと夫に言った。
「夫はわかったと言いながら、結局は朝起きてこないし、子どもが泣いても知らん顔。家事も育児もしない、仕事を探しにも行かない。こんな状況で私が心地よく子どもの面倒を見られるわけがない。ひとりで我慢しているのもつらいから、義母に電話で相談したんです。そうしたら義母が飛んできました。自分の息子を叱るのかなと思ったら、『ごめんなさいね』と私に謝って封筒を差し出したんです。50万くらい入っている感じでした。こういうことをしてほしいわけではない、あなたの息子がこういう状況だから説得してほしかったんだと言うと、『とりあえず生活費の足しにして』と。そして夫にも小遣いを渡して帰っていきました」
夫は、「うちの親は偉いなあ」と満足そうな笑みを浮かべていたという。サエリさんの心の中で何かが切れた。
夫の本音を探り出そうとしたけれど
もともと夫は超有名大卒のエリート。仕事熱心だったし、決して怠け者でもなかったはず。サエリさんは、夫が本当はどう思っているのか、嫌な思いをして自信喪失しているのではないかと考えた。失職した夫の心を理解したい。そう思ってアプローチしたこともある。「仕事を失ったのはつらいと思うけど、このままでいいとは思えない。今、何を考えているのか話してほしい。そう言うと、『別に』とだけ言って自室にこもってしまいました。結局、どうにもならないので、それから必死で保育園を探し、生後4カ月で子どもを預けて職場復帰。時短すらせず働き続けました」
仕事に行くとき、夫が「オレの昼飯は?」と言ったことが忘れられないとサエリさんはつぶやいた。それでも彼女は孤軍奮闘を続ける。
「いつか夫が心身共に回復して社会復帰してくれる。そう信じていました。私は夫が心に傷を負っていると思っていたから」
ところがある日、仕事で外に出たとき、職場が近い夫の友人とばったり会った。友人は夫が大丈夫かどうか聞いてきたという。
「その結果、わかったのは夫が仕事を辞めたのは違う理由だったということです。会社が吸収合併され、夫は役職を降格させられたらしいんです。それに大抗議をして大暴れ、そのあげくに辞表を叩きつけたらしい。合併ですから降格となった人は他にもけっこういたのに、夫はエリート意識が強かったから怒りが爆発したんでしょう。辞表を出した当日、夫はその友人に会ってすべて話したそうです。ショックだった、信頼していた上司もかばってくれなかったと言っていたんですって。私は夫のエリート意識がそこまで強いのかということに驚きましたね」
サエリさんは夫を冷たい目で見ている自分を感じていた。夫とは対等な関係でいようと約束して生活を始めたのに、実際は自分にだけ負担がかかってきたことも思い出した。夫といい家庭を作りたかったのに、夫にはその気がなかったのかと落ち込みもした。
「その後、しばらくたってから失業保険がおりるようになったんですが、夫はそれを元手にパチンコをするようになった。生活費も出してくれない。1年がんばりましたが、どうしてももう一緒にはやっていけないと思い、夫に『離婚しよう』と言いました」
夫は「オレを見捨てるのか」といきなり泣き出した。サエリさんは、「一緒に生活しているのに何にも協力しないあなたが、私たちを見捨てたんだと思う」と反論した。「おまえはオレのことなんか気にかけてもくれなかった」と言う夫に、サエリさんはどんどん気持ちが冷めていった。
「男が弱みを見せれば女は労ってくれると思い込んでいるんじゃないか。そんな感じがしました。それなら最初の時点で会社を辞めた理由を正直に話してほしかった。自分に都合が悪いことは隠して、会社を辞めて荒れた気分だから慰めてほしいというのはただの自己チュー。とりあえず出て行ってほしいと言ったら、ここはオレの家だと騒ぎ出して。でも違うんです、自宅は私の勤務先が住宅補助を出してくれて、私名義で住んでいた。それを言ったら夫はギクッとして、荷物をまとめて出て行きました。実家に帰ったようです」
それから2年かかってようやく離婚が成立。サエリさんは、8歳になった娘とふたりで穏やかに暮らしている。
「友人経由の話だと、夫はときどきアルバイトをするような生活みたい。養育費は振り込まれているので、おそらく義両親が払っているんじゃないかと思います。義両親も特に裕福というわけではないから気の毒だなと思って……。もちろん娘のために貯金に回していますが。夫から娘に会いたいという言葉はまったくないですね」
プライドの高い夫だからこそ、いったんルートを外れたら心が追いつかなくなってしまったのかもしれない。だがそれはあまりに「弱いし無責任」だとサエリさんは感じている。
「大学の名前に固執するより、生活力、生命力の強い人のほうが頼りになるのかもしれません」
彼女はそう言って「やっぱり私、冷たいのかなあ」と苦笑した。