後のインターネットにもつながった脳内のネットワーク
私たちの脳の中の神経ネットワークでは、どんな信号がやりとりされているのだろうか
イタリアの解剖学者カミロ・ゴルジは、独特な染色法を使って人間の脳を調べ、脳はたくさんの神経細胞(=ニューロン)が集まってできていることを明らかにしました。その後、ゴルジは、脳の中にある神経細胞のつくりをさらに念入りに調べ、神経細胞の中心部分(=細胞体)から神経突起と呼ばれる細長い線維が伸びていて、その先が他のニューロンに達することで、網状のネットワークが形成されていることを発見しました。
私は、大学の生理学の授業で、脳の構造と働きについて教えるときに、「脳の中には、ちょうどインターネットのような神経のネットワークがあります」と解説しています。理解の助けになるだろうと思ってそうしているのですが、厳密に言うと、「インターネットのような」という解説は正しくありません。というのも、神経のネットワークが発見されたのが先で、これが元となって作られたのが、現代のインターネットとも言えるからです。脳内のネットワークにヒントを得た人々が、お互いに連絡を取り合う手段として各家庭の電話を電線でつないだ通信網を構築し、さらにそれを発展させて今日のインターネットが作られました。
みなさんがこうしてインターネットを使って私の記事を読んでくれているのは、ずっと遡って考えると、昔ゴルジが見つけた脳内の神経ネットワークが元になっているのです。そう考えると、脳科学は、私たちの暮らしに大きな影響を与えているんですね。
神経ネットワークの謎……神経細胞同士はくっついているのか?
ゴルジが発見した神経のネットワークについては、ちょっと問題がありました。少し専門的になりますが、ゴルジが唱えたのは「網状説」と呼ばれ、一つの神経細胞から伸びた神経突起の線維の末端が、他の神経細胞にくっついて、脳全体のネットワーク網が完全につながっているという考えでした。これに異を唱えたのが、スペインの神経解剖学者サンティアゴ・ラモン・イ・カハールでした。カハールは、ゴルジ染色法を駆使して脳の構造を詳しく観察するうちに、神経系は神経細胞という非連続の単位で構成されており、神経突起の線維の末端は他の細胞にくっついておらず、途切れていると主張したのでした。
神経ネットワークの中で、神経細胞どうしはくっついているのか、離れているのか。大論争がまきおこりました。皆さんの中には「そんな小さいことどうでもいいじゃないか」と思われる方もいらっしゃると思いますが、実はこの論争が後に、脳科学に大きな進歩をもたらすことになるのです。
当時はそれを確かめる手段がなかったため、ずっと結論がでませんでした。ただ、この論争は科学界に多大な影響を与えたため、ゴルジとカハールの2人ともが、1906年のノーベル生理学・医学賞を受賞することになりました。しかし、対立関係にあった2人は、まったく別の場所で受賞記念講演を行い、授賞式ではお互いに言葉を交わすことは無かったそうです。
「シナプス」の発見! 電子顕微鏡で見えた細胞間
まだ論争中だったのにノーベル賞を受賞したゴルジとカハールの間に、ついに決着の時が来ました。電子顕微鏡が発明されたのです。従来の光学顕微鏡は、観察したい対象物に可視光を当てながら、レンズで拡大して観察する装置ですが、新しく発明された電子顕微鏡では、可視光の代わりに電子線を対象物に当てます。電子線は可視光よりも波長がずっと短いので、より高い分解能で物を見ることができるようになったのです。分解能が高いというのは、分かりやすく言うと、より小さなものを見分けることができるということです。ウイルスは、光学顕微鏡では見えませんが、電子顕微鏡では見えます。
光学顕微鏡で観察したときには神経細胞どうしがくっついているように見えた部分を、電子顕微鏡で観察したところ、そこには、わずかな隙間があったのです。神経ネットワークの微細構造については、カハールの説に軍配が上がったということです。
その後、その隙間を含めた、神経細胞の接合部分は「シナプス(synapse)」と呼ばれるようになりました。名付けたのは、イギリスの生理学者チャールズ・スコット・シェリントンです。「ジョイント(留め具)、握手」を意味するギリシャ語のsynapsis が語源だそうです。お互いが握手をしようとして手を伸ばしているけれど手は触れていない、という状態を表現したかったのでしょう。ちなみに、シナプス(synapse)の最初のsyn-には、合わせるという意味があり、タイミングを合わせたり、同時に事が起こるときに使う「シンクロ」のシンと同じ語源です。そして、シェリントンは、1932年に神経細胞の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
シナプスのつくりと働き……神経細胞の入力端子と出力端子
「シナプス」の発見は、脳科学を飛躍的に進歩させました。その歴史のすべてを説明することはここでは控え、これまでの研究によって明らかにされたシナプスのつくりと働きを解説して、今回の記事を締めくくりたいと思います。下の図に示したように、脳の中には数えきれないほどの神経細胞があり、複雑なネットワークを形成しています。皮膚や筋肉の細胞などと神経細胞が大きく違う点は、神経突起という腕のような構造をもっていることです。神経突起はさらに、樹状突起と軸索に分けられます。樹状突起は比較的短くたくさん枝分かれをしているのに対して、軸索は通常一本でとても長く伸びています。脳の神経ネットワークにおいて、樹状突起は、他の神経細胞が発した信号を受け取る入力端子に相当し、一方の軸索は、他の神経細胞に伝えたい信号を出す出力端子に相当します。 ある神経細胞が活動すると電気信号が発生します。その電気信号は、長い軸索を素早く伝わり、その末端まで到達します。ちょうど電話線の中を電気が流れて、情報が送られるのと同じようなものと考えてかまいません。軸索の末端まで到達した電気信号がそのまま隣の神経細胞に伝われば簡単ですが、そこにはシナプスの隙間があります。直接くっついていないので、電気は伝わりません。シナプスではどうやって情報が伝えられているのでしょうか。
神経細胞はシナプスで会話をしている
あなたが誰かに何かを伝えたいときにはどうしますか。電話? メール? 色々な方法があるでしょうが、相手がすぐ目の前の少し離れたところにいるならば、声を出して話しかければ手早く伝えられますね。実は、神経と神経のつなぎ目であるシナプスでも、それと似た方法で情報が伝えられているのです。下の図に示したように、神経細胞の声に相当するものが、「神経伝達物質」です。神経伝達物質は、「シナプス小胞」と呼ばれる軸索の末端にある小さな袋の中に貯えられていて、電気信号が伝わってくると袋の中から飛び出して、シナプスの隙間へと放出されます。 しかし、あなたがいくら声を出しても相手がちゃんと聞いてくれなければメッセージは伝わりませんね。神経のシナプスにおいて、きちんと声を聞きとる耳の役割を果たすのが、受け手側の樹状突起上に存在する「受容体」と呼ばれる構造です。受容体が、神経伝達物質をキャッチすると、メッセージが伝わったことになります。
このように、シナプスで神経細胞同士が会話をして情報を伝える仕組みを「シナプス伝達」と言います。私たちの脳が働いているときには、あちらこちらで、神経細胞同士がシナプスでおしゃべりをしているのです。
ただし、神経同士の会話と言っても、お互いが自由に話せるわけではありません。話し手と聞き手が決まっており、会話は一方通行なので、会話というよりも伝言ゲームに近いかもしれません。神経ネットワーク内の情報伝達においては、逆向きに返してしまうと混乱します。そうならないために、聞き手が話し手に返すということはせず、先へ先へとメッセージを伝えるだけの一方通行になっているということをしっかり理解しておいてください。