亀山早苗の恋愛コラム

中学生のときからずっと…。「ヤングケアラー」だった私は家事だけこなす無職の23歳になっていた

最近、よく聞くヤングケアラーという言葉。親や祖父母、きょうだいなどの介護や看護を担う若者のことだ。自身には認識がないかもしれないが、「今思えば……」と話してくれた女性がいる。

亀山 早苗

執筆者:亀山 早苗

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「ヤングケアラー」だった私、家族観が歪んだ

ヤングケアラー

最近、よく聞くヤングケアラーという言葉。親や祖父母、きょうだいなどの介護や看護を担う若者のことだ。中学生の17人にひとりがヤングケアラーに当たるという調査もある。自身には認識がないかもしれないが、「今思えば……」と話してくれた女性がいる。

 

祖母と同居、親は共働き

15歳から20歳くらいまで、ずっと家族の世話をしていたというアヤナさん(35歳)。両親と祖母、兄と妹との6人暮らしだった。両親は共働きで幼いころは家事をほとんどすべて祖母が担っていたという。

「私が中学生のとき祖母が倒れたんです。入院が長引き、その間、母は仕事と祖母の見舞いに明け暮れ、私は4歳下の妹の面倒をみていました。その後、祖母は退院しましたが、身の回りのことがやっとできる程度。私はバスケ部を辞め、早く帰って祖母を助けながら家事をこなしていました」

兄は当時、受験生でいつもピリピリしていた。母親に「おにいちゃんには家事をさせないで」と言われていたから、洗濯をしたり干したり畳んだり掃除機をかけたり夕飯の支度をするのはすべてアヤナさんの仕事になっていった。

「当時の私は、母に頼られているからがんばらなければと思っていました。祖母は父の母親ですが、父は祖母のことは何ひとつしませんでしたね。毎日のように酔って遅く帰ってきて。母は私たちの夕飯の時間に間に合うかどうかという時間に帰宅することが多かった。食べ始めてしばらくすると母が帰ってきて、私は立ち上がっておかずを温め直したりして。今思うと、本当に自分がかわいそうだったと思います」

中学3年生のとき、兄が受験に失敗。今度は兄と自分、ふたりの受験が重なることになったのだが、母は相変わらず兄には何もさせなかった。

「私の受験のことなどあってないようなものでした。『あなたは大丈夫、県立ならどこでもいいから』と言われて。兄の将来のことにはいろいろ口を出していましたが、私のことは放ったらかしでしたね。日々、家事がちゃんとやってあれば何も言わなかった」

なんとか県立高校にもぐりこんだ。兄もようやく大学に合格。そのとたん、あまり家には寄りつかなくなっていった。

アヤナさんは本当は部活動もやりたかったが、まだ小学生の妹に、少しずつ弱っていく祖母を任せるわけにはいかなかった。

 

やっと解放されて

あるとき、帰宅すると祖母が倒れていた。転倒して腰椎を骨折、動けなくなっていたのだ。その日は妹も塾に行っていて留守だった。あわてて母に連絡をとると、「救急車を呼びなさい」と言われた。ところが母が帰宅すると、救急車で運ばれた病院が遠すぎると文句を言われた。

「そういうときの母の言い方が巧みなんですよ。『あなたなら大丈夫だと思って任せたのに……』って。こちらが罪悪感を抱くような言い方をする。今はそれが母のやり方だとわかるけど、当時は『ごめんなさい』と謝るしかありませんでした」

遠い病院に、アヤナさんは毎日のように通った。妹も「おねえちゃんが作ったご飯がいい」と自分では何もしない。

「そのせいで私はしっかり大学受験に失敗しました。母は『来年も受ければいいじゃない』とこともなげに言った。私がどうして失敗したのか考えてもくれない。そのころからですかね、これはどうもおかしい、私だけが割を食っているんじゃないかと考え始めたのは」

早く帰れる日もあるはずなのに、母は早くは帰ってこない。母が家事をするのは週末だけだ。どうして私だけがこんなに大変なのかと言いたかったが言えなかった。「頼りにしてる」と母がときどきこっそりつぶやくからだ。

アヤナさんは結局、翌年も受験に落ちた。家に戻ってきた祖母の認知症が進んで目を離せなくなっていたのが大きな原因だ。彼女は予備校に通うこともできなかった。

「そのまま私は家事手伝いみたいな状態になってしまったんですが、20歳の誕生日を迎えたころ祖母が亡くなりました。正直言って、ほっとしたところもありましたね。両親と妹との4人暮らしになったとき、もう家の犠牲になりたくないと母に言いました。母は『意味がわからないわ、アヤナがいい子だから助かっているのに。感謝してるのよ』と。私の人生はどこにあるんだと叫び、私はそのまま家を出ました」

だが妹に泣きつかれて、彼女はやはり家に戻る。アルバイトをしながら家事をする日々が続いた。妹が大学生になったとき、彼女は23歳になっていた。

「無職の23歳。ふと気づいたら、もう家では必要とされていませんでした。朝起きると、家の中はがらんとして、みんな出かけたあと。みんな行くところがある。洗濯物は山になっているけど、もう家事はうんざりでした。今さら受験する気にもなれない」

そこで彼女が飛び込んだのが水商売の世界だった。だが、自分が長くやっていける仕事ではないとすぐに悟った。

「寮があったので入れてもらって、とにかくお金を貯めました。1年後、とある国家資格をとるために専門学校に入って。そこからは昼は学校、夜は仕事。必死でしたね。家族とはほとんど連絡をとりませんでした」

3年後、彼女はようやく資格をとって転職した。それからはずっとひとり暮らしだ。30歳になる直前、当時つきあっていた男性からプロポーズされたが断った。

「彼が、『きみなら僕や、僕の両親が弱ったときに信用して頼りにできる』と言ったんです。私を頼らないで、私のことなんて放っておいて、私は私の人生を歩きたいのと彼に向かって叫んでしまいました。そのとき、10代で経験した家族のケアを、私は望んでやっていたわけではないと確認したんです。家族なんてうっとうしいだけというのが本音でした。彼はびっくりしたようでしたが、それ以上、尋ねてはこなかった。もし聞いてくれたら、過去も含めて全部話そうと思っていたんですが、その機会はなかった……」

つい最近、ヤングケアラーという言葉を聞いて、彼女はすべてが腑に落ちたという。あのころ、自分は本当につらかったのだと認めることもできた。だからといって、家族はうっとうしいだけという考え方は変わらない、いや、むしろより強くなった。この先、結婚はできないでしょうねと小さな声でつぶやいた。
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