シンガポールで暮らしているときに古本屋で運命の出会いを果たした『マレー蘭印紀行』
詩人・金子光晴がマレー半島を4年にわたり放浪した日々をつづった『マレー蘭印紀行』は、ただの見聞録ではありません。旅をすることの影の側面を淡々と、でもいきいきと表現した異色の紀行文です。
行き場のない鬱々とした心をそのまま旅で体現する金子の姿に、いつしか引き込まれてしまう物語でもあります。
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金子光晴の旅の背景にあったドロドロ三角関係
金子光晴は、1928年から1932年までの4年もの間、シンガポール、マレー半島、ジャワ、スマトラを放浪しました。そのときの見聞について、出版するあてもなく少しずつ書き綴ったのが『マレー蘭印紀行』です。
実際には旅を始めてから12年後の1940年に出版されたという、時間のズレがあるところもポイント。旅しているその場での視点と、時間が経ってから客観的に見返している視点とが1冊のなかに混ざりあっており、普通の紀行文とは一線を画す世界観を生み出しています。
当時、妻であり作家の森美千代とその恋人との三角関係に陥っていた金子光晴は、妻を伴って泥沼の状況から逃げるようにシンガポールへ向かいますが、結局妻はそこから恋人を追うようにパリへ行ってしまいます。
金子は、滞在費を稼いでから追っていくという理由で南洋の地に残りますが、その後4年もの間あてどなくこの地を放浪するのです。彼の目に映る南洋の自然はたくましく、金子の行き場のない現実との対比でさらに色濃く描かれています。
光があれば影がある。この強烈な対比は、全編を通じて感じることができ、南洋の持つ得体のしれない魅力やそれに飲み込まれそうになる瞬間をリアルに表現していています。この紀行文の異色さを際立たせているポイントと言えるでしょう。
マレー半島で生きる日本人を描ききった紀行文
シンガポールやマレー半島には当時から日本人が住んでいました。南洋と呼ばれる過酷な地で一旗揚げようとやってきた在住者の人間模様も、この紀行文にはしっかり記されています。
とくに私が好きなのが「バトパハ」の章。ゴム農園事業や鉱山開発のために多くの日本人が暮らしていたというマレーシアの小さな街なのですが、この章では当時の街の様子やマレー人の暮らし、日本人の人間模様などが鮮明に記されています。
日本に帰りたくても帰れずにお酒や女性におぼれていく日本の青年の姿は、この本に出会った当時、迷いながら海外で暮らしていた私の心にリアルに突き刺さりました。金子が何をするでもなく、コピティアム(マレーのコーヒーショップのこと)でマレー人観察をしている様子も自分と重なって、この本にどっぷりハマってしまいました。
この本が好きすぎて、私は実際に金子と同じルートでバトパハへ渡ったことがあります。金子が滞在していた建物を見つけたときは本当に感涙しました。コピティアムはなくなっていましたが、その地に立つと、目の前には『マレー蘭印紀行』で描かれていた、気だるい南洋の世界が広がっていました。
そこで私は、旅や紀行文というものの本当の魅力に出会えた気がしましす。まさに、自分の旅感を変えた1冊なのです。いつかそんな紀行文を書いてみたいという夢はいまだ実現していませんが。
自分探しの旅を肯定できる1冊
金子光晴は、南洋に住む日本人たちに絵や詩を売り、衣食住を援助してもらいながら滞在と移動を繰り返します。早くパリへ行けばいいのに、そうすることをためらっているかのように。
これは、バックパッカーが旅に沈没するのと同じ状況なんですよね。帰る場所も意味も見いだせなくなって、旅の目的がもはや帰らないこと、そこにとりあえずいることになっていく。でも、それも旅なんだと、この本を読んでいるとそう思えて少しホッとするのです。
私も20代の頃はバックパックを背負ってアジアを旅していましたし、シンガポールで暮らした経験もあります。私など、どちらかというとライトな旅人で恵まれた南洋在住者でしたが、それでも日本を離れていつの間にやら、どこへ行きたいのかいつ帰ったらいいのかわからなくなる、旅先に飲み込まれそうになる瞬間がありました。
「このまま、この濃い緑が広がる熱帯の国で、何か思いつくまでひたすらぼんやりしていたい、とりあえず」と、漠然とした将来の不安から逃れようとするその気持ちや状況が、何十年も前の旅人の紀行文でリアルに描かれている。
金子光晴は南洋の旅で自分を探し、迷い、その鬱々とした状況を自分が出会った人や自然にも投影しながら書ききった。『マレー蘭印紀行』の魅力はそこにあると、私は思っています。
苦しい旅だからこそ味わえる、旅の究極の魅力を存分に感じられる紀行文なのです。
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DATA
中央公論新社┃マレー蘭印紀行
著者:金子光晴