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執着するとは? 仏教では「執着(しゅうじゃく)」と読む!
執着するとは、どんな状態なのでしょう?
みなさんは「執着」という言葉にどんなイメージを持っていますか? 別れた恋人が忘れられない、大事なものを手放したくなくてしがみついている、手に入らないものを追い求める……などでしょうか。
「執着」には仏教でよく使われる言葉、というイメージはないかもしれませんね。
仏教では「執着(しゅうじゃく)」と読み、苦しみを生む原因としてとらえられています。この世は諸行無常であり、あらゆる事物は変化するものであるのに、変わらないもの・永遠のものだと信じ込んでしがみついてしまう。それが苦しみを生むのです。
恋愛、お金、何かにとらわれている状態が「執着」
執着とは「とらわれ」です。ひとつのことに心がとらわれて離れられなくなっている状態で、その対象は恋愛、お金、食べ物などさまざまです。
例えば恋愛の場合、別れた元彼のことが忘れられないというのは過去にとらわれているということです。元彼の心はすでに変化しているのに、変わらずにあるものと信じて追いすがったり、引き留めようとしたり。これが執着です。
お金に対する執着もあるでしょう。「もっとお金が欲しい」「お金さえあれば」と心がとらわれ、お金しか見えなくなっています。
こうした執着が悩みや苦しみを生みます。なぜなら、心がとらわれてしまうと頭から離れなくなり、視野が狭くなって他の選択肢が考えられない状態になってしまうからです。心の柔軟性がなくなっている状態ともいえます。これでは本当の幸せが見えなくなってしまいます。
執着に気づき、引き受けるということ
こうした執着はなるべく捨てたほうがいいのですが、自分が執着していることに気づくのはむずかしいものです。「別れた元彼が戻ってきてくれるかも」と思っている間は、それが執着だなんて思いもしませんよね。執着は目に見えないものだからこそ、認識するのがむずかしいのです。ただ、執着する心の仕組みを知ることはできます。頭から離れないほど心がとらわれてしまうこと、視野が狭くなり他の選択肢が見えなくなってしまうこと……そうした心の特徴を理解しておくと、実際に自分が陥ったときに気づきやすくなります。
そして気づくことができたなら、執着をきちんと引き受けることです。
執着している自分を認め、苦しいならその執着を手放さなければなりません。他人がいくら「執着するのはやめなよ」と言っても無理。執着していることを認めて、そこから自分で答えを出さなければ前には進めません。
とはいえ、自分が執着していると気づいたときには抜け出すのが難しい状況になっている場合もあるでしょう。
執着を手放すためのトレーニングとは?
執着を手放すためのトレーニング
例えば「今日はラーメンが食べたいのに近くにラーメン屋さんがない」というとき、いつまでも「ラーメン、ラーメン」と騒いでいては、心は余計にしがみつきたくなります。
「じゃあ今日はパスタにしよう。どんなパスタがいいかな」とスッと他の食事に気持ちを切り替えてみましょう。小さな切り替えができれば心がラクになります。日々の小さいことをトレーニングの材料にして、心を柔軟に保てるようにすることが大切です。
「縁起」を理解することで手放す怖さが和らぐ
仏教には「無明(むみょう)」という言葉があります。「物事の真理に気づかない」という意味で、この無明という状態をなくすことが悟りに至ることになります。執着するということは、無明の状態であるということ。真実が見えなくなっているということです。
執着しているときは、それを手放すと自分自身までも失ってしまうような気持ちになるものです。執着するくらい自分にとって大事なものを手放すのはたしかに怖いことでしょう。
でも、本当は物事そのものに執着しているのではなく、執着している対象は、自分の欲望や願望を投影しているだけかもしれません。
仏教には「縁起(えんぎ)」という言葉があります。これは、人や物事がそれのみで存在するわけではなく、相互に関係しあいその中で成り立っていることを表す言葉で仏教的な世界の捉え方です。この在り方を理解し受け入れていくことが、執着を手放す恐怖を和らげることに繋がるはずです。
仏さまはきっとそんな私たちを見守ってくださることでしょう。秋に枯れ葉が枝からフッと離れ落ちるように、執着をすっと自然に手放し、生きていきたいものですね。
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