映画「海賊とよばれた男」の舞台裏
映画「海賊とよばれた男」(山崎貴監督)は出光(映画では国岡商店)の創業者・出光佐三が戦時中、戦後復興という激動の時期を乗り越えていく映画です。この映画では、筆者のほか株式会社鳴美や郵政博物館など切手収集に関わりの深い個人や団体が取材協力のかたちで電報のシーンの撮影に参画しています。今回、電報配達のシーンに協力した体験から映画制作の時代考証や小道具作りの一端をご紹介したいと思います。
そもそも電報とは何か
電報とは、電信局(電報局・電信取扱所)や郵便局などの間で電文を交わして、専用の電報送達紙に書いて配達する情報通信サービスのことです。現在では冠婚葬祭など儀礼的に発信されることが多いですが、郵便よりも早く伝えられることから、電話やファクシミリが普及する前はかなり一般的に使われていました。電報と切手収集との関わり?
なぜ切手収集家が電報を?と思われるかもしれませんが、日本の場合、電報料金は昭和24年(1949)まで郵便切手で支払えました。世界的に見ても、電報は専門の配達員だけでなく、郵便局の配達員が届けることも多かったため、切手収集の1つのジャンルとして確立しています。満鉄から呼び出される電報
さて、映画「海賊とよばれた男」の中でまず電報が出てくるのは、国岡が南満洲鉄道株式会社から呼び出される大正7年(1918)12月のシーンです。届いた先は国岡が泊まっている大連市内のホテルでした。国岡にとっては念願のチャンスが訪れる重要な場面なのですが、彼を呼び出すのに電報が用いられたわけです。満洲と言っても、満洲国が成立するのは昭和7年(大同元年・1932)のこと。映画で電報が出てくる大正7年当時の満洲は関東都督府の時代です。日本の機関が関東州の統治と警備を行っていたため、国岡も日本国内と同じ様式で電報を受け取ることができました。また明治44年(1911)には大連湾に日本の無線電信施設もできていたので、容易に日本と連絡を取ることが可能でした。
こちら(下)が、筆者が映画会社に提供した大正10年(1921)の大連市内に届いた電報です。この電報を画像処理して、映画の小道具に使う電報を制作しました。南満洲鉄道株式会社の本社構内には電信取扱所があったので、ここから電報が発信され、大連市内の局から国岡に届けられたと考えるのが自然ではないかと、筆者はアドバイスしました。
日章丸事件の電報
もう1つ、映画「海賊とよばれた男」に出てくる電報が日章丸事件の電報です。日章丸事件は日本の民間企業がイギリス海軍に喧嘩腰の対応をした昭和28年(1953)の出来事で、映画の中でもクライマックスをなしています。映画では、日章丸が事件直前に洋上で電報を受信しているのですが、きちんと当時使われていたものを忠実に再現しています。ただし厳密に言えば、欧文用の横型の電報ではなく和文用の縦型のものを使ったほうが実際に近かったかもしれません。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日'64」の電報
同じ山崎貴監督の作品「ALWAYS 三丁目の夕日'64」で出てくる昭和39年(1964)の電報も、実は筆者所蔵の電報を画像処理したものです。当時の電報配達はオートバイか自転車か、映画の舞台となった東京都港区ではどうだったのかなど、緻密な時代考証をして電報配達のシーンを再現しています。ちなみに映画「ALWAYS 三丁目の夕日'64」の中では茶川竜之介(吉岡秀隆)が電報配達の人に向かって、「転職したの!」と驚いてみせるセリフがあります。少し分かりにくいシーンなのですが、映画の舞台となった東京都港区では、郵便配達と一緒に電報を届けるのではなく、電報専門に届ける配達員がいたはずです。
「三丁目の夕日」の前作では郵便配達をしていた俳優さんが「三丁目の夕日'64」では電報を配達しているので、電報局に転職したという設定になったというわけです。これは筆者が電報を提供した際に出てきたアイデアです。
「海賊とよばれた男」でも「ALWAYS 三丁目の夕日'64」でも言えることですが、当時の世界を再現するために、わずか数秒のシーンを作り上げるためだけにも、専門家が知恵を出し合いながら、何日もかけて議論したり、小道具を用意したりしています。
ぜひそんな映画制作での細部のこだわりにも注目しながら、映画「海賊とよばれた男」をご覧いただければと思います。
【関連サイト】
映画「海賊とよばれた男」公式サイト