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『この世界の片隅に』笑えるからこそ気づきにくい盲点

松本穂香主演で話題のドラマ「この世界の片隅に」。ドラマのファンになった人はぜひ2016に公開され高評価を得たアニメ映画版もチェックしてみてください。映画『この世界の片隅に』は、笑えるシーンであっても、どこかに“広島に原爆が落とされる未来”という悲しさが顔を見せるというのが特徴の1つでした。ここでは、本作がクスクス笑えるからこそ気づきにくい“盲点”を紹介します。

ヒナタカ

執筆者:ヒナタカ

映画ガイド

『君の名は。』『聲の形』に続く話題作!

2016年11月に公開されたアニメ映画『この世界の片隅に』は各地で絶賛の声が相次ぎ、初秋は10位であった観客動員ランキングが公開4週目にして4位に躍り出るなど、大きな注目を集めています。

公開劇場は63館という小規模公開から始まりましたが、年が明けた2017年からはその3倍上の累計190館以上に拡大。SNSを中心とした強力な口コミ効果が、さらにさらに多くの人に広がっているのです。
(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

その『この世界の片隅に』は、第13回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞したこうの史代の同名コミックが原作であり、『マイマイ新子と千年の魔法』の片渕須直が監督を手がけた作品です。

作中では、戦時中の広島・呉で日々を生きる少女・すずと、それを取り巻く人々の日常をただただ追い続けており、見ていてクスクスと笑えたり、ほんわかと癒されるシーンも満載だったりします。

その一方で……笑えるシーンであっても、どこかに“戦争の影”があり、“広島に原爆が落とされる未来”が見える、という悲しさが顔をみせる、というのも、本作の特徴の1つでした。
ここでは、本作がクスクス笑えるからでこそ気づきにくい“盲点”を紹介します。

なお、以下の項目3.からは大きなネタバレに触れているので、まだ映画版を見ていない方はご注意ください。

 

1.「さようなら広島」というセリフの意味

物語の序盤に、すずが広島に里帰りしてから、また呉の嫁ぎ先に戻ろうとするとき……彼女は“広島県産業奨励館”、“紙屋町交差点”、“広島駅”などの光景を見ながらスケッチをしていました。このときに、すずは「さようなら広島」とつぶやいています。
(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

この「さようなら広島」とは、すずの“これから呉に戻るから、故郷の広島に別れを告げた”という気持ちだけでなく、これから広島に原爆が投下されてしまうため、本当にその光景が消えて無くなってしまうという未来をも示していたのでしょう。(※広島県産業奨励館とは、後の原爆ドームです)

この次に、すずが切符を買い損ねて家族にあきられてしまうという、笑ってしまうシーンがあるので、このセリフの重要性に少し気づきにくくなっているんですね。

 

2.ぼーっとしているように見えるすずも、ストレスに悩まされていた?

すずの妹のすみは、すずの頭に小さなハゲを見つけて、「海軍の機密に触れてしもうた」と言っていました。その後もすずのハゲは、夫の周作に置かれた手を払いのけるものの結局バレたり、義理の姉の娘である晴美に「墨ですずさんのハゲを塗ってあげるの!」とその母親に頼み込まれてしまうなど、さんざんイジられることになります(笑)。

でも、よく考えたら円形脱毛症って、アレルギーだけでなく、ストレスが大きな原因でなってしまうものですよね。「ぼーっとしとるけえ」が口癖で、ほわほわした雰囲気のすずでしたが、実は嫁ぎ先で相当なプレッシャーを抱えていたのではないでしょうか。

足を悪くしている(周作の)母の代わりを務めなければならなかったり、ゆっくりニボシの頭を取っているところを見られて義姉の徑子に「もうええ」とキツく言われてしまったり、そもそも毎日の献立を考えたりと……きっと、すずが思っている以上に、それは大変なことなのでしょう。

すずが周作と一緒に軍艦を見て、その巨大さや兵隊のがんばりではなく、「あんなにたくさん兵隊さんがいて、毎日のご飯や洗濯はどうするんじゃろ?」と言ってしまうのも、自分の苦労を重ね合わせたからなのでしょうね。


※以下からは、映画『この世界の片隅に』の重大なネタバレに触れています。鑑賞後にお読みください↓

 

3.かなとこ雲の意味と、戦争の残酷さを知らない晴美

晴美が海にある軍艦の名前を言っていった後、すずが“かなとこ雲”を指差して「雨になります」と教えてあげると、本当にすぐに土砂降りの雨が降ってしまうというシーンがありました。
(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

(C)こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

これもクスっと笑えるシーンなのですが……物語の終盤、昭和20年8月6日、原爆の“キノコ雲”を見たすずは、このかなとこ雲のことを思い出していたようでした。

これは、“当時の人がまったく知らないこと”、“よく知っているようなことでも、わからないものもあるということ”を示しているのでしょう。かなとこ雲とキノコ雲は形は似ているけれど、雨を予期させるもの、多くの人間を殺した原爆の破壊力を示すものと、その本当の意味はまったく違うのですから。

このかなとこ雲とキノコ雲の対比で思い出すのが、海岸にある軍艦を見て確かめようとした晴美が、時限爆弾で死んでしまったことです。

晴美は兄から軍艦の名前を教えてもらっていたおかげで、その知識は豊富でした。空襲があったときに父に「敵は何馬力?」と聞いていたり、「大きくなったら水兵さんになる!」と言ったこともありましたね。晴美は、戦争の恐ろしさなど考えず、ただただ兵隊や軍艦へ憧れていた、純粋無垢な少女だったのですが……その未来を戦争は無残にも奪い去ってしまうのです。

すぐには本当の意味がわからなかった”、“あっという間に命を奪ってしまう”という戦争の残酷性が、すずがキノコ雲を見てかなとこ雲を思い出したことと、純粋だった晴美の死により、わかるのです。

ほかにも、すずが体を大きくそらして、飛行機雲を見ているシーンもありましたね。その飛行機雲もまた、“後で北条家を襲う”、“多くの死者を出す”爆撃機が残したものなのですが、すずはそのことにまだ気づいていないようでした。

 

4.すずが絵を好きだったことの意味

すずは幼いころから絵を描くことが大好きでした。だけど、鉛筆を買いたいと母に頼むと“鬼いちゃん”に「がまんせえや、お前が落書きせんかったらええことやろが」と言われてしまったり、限界ギリギリまで鉛筆が短くなっても使わなければいけないなど、戦時中の物資不足が顔を出していました。

だけど、そんなすずは、“人さらい”の漫画を描いて妹のすみを喜ばせたり、幼じみの水原のためにうさぎが跳びはねている海の絵を描いてあげて「こんな絵じゃ海を嫌いになれん」と言わせたりもします。すずの絵は、誰かを幸せにしてあげていたのです。

すずはやがて、遊郭で働いている女性のリンと出会います。リンは、すずが地面に描いた子どもっぽい落書きを見ながら、「スイカ、キャラメル、迷子?」と聞いて、親切に帰る道を教えてくれました。実は、原作では語られているのですが、リンはちゃんとした教育を受けていないため、字が読めません。だから、もしも、すずが「道に迷ったので助けてください」などと文字を書いて訴えていたのなら、リンは声をかけて来なかったのかもしれないのです。すずは現実逃避(笑)のための絵をたまたま描いたため、家に帰ることができ、リンと知り合うことができたんですね。

しかし……段々畑で絵を描いていたすずのことを、憲兵たちが厳しく問い詰めたこともありました。北条家の人はそのことを憲兵の前で笑ってしまわないように頑張りますが、後で周作を含めた一家全員で大笑いします。

でも、すずは「素直に笑えんのは自分だけじゃろうか」と言ったとおり、自分の絵が咎められたことに、かなりショックを受けていたのでしょう。そのせいか、すずはこれ以降、リンを知り合うきっかけになった落書き以外は、ほとんど絵を描いていません。羽を筆ペンにしているすずを見て、水原が「最近絵は描いとらんのか」と聞くシーンもありましたね。

そんなすずは、晴美と、いつも絵を描いていた右手を失ってしまいます。すずが右手を見つめていたとき、周りの景色は、まるで左手で描いた水彩画のようにぼやけていきました。これは「歪(いが)んどる」と自己嫌悪に陥っているすずの心を示しているのでしょう。

だけど、そのなくなったはずの右手は、最後にすずの頭をそっと撫でてくれたようでした。このおかげか、最後にすずたちが見ている夜景は、すずが描いた淡い絵画のようになっていました。すずはもう右手で好きだった絵を描けないかもしれない。だけど、“想像”の右手は、家々に明りがともり、星々も輝くという、この後のすずたちの生活の幸福を思わせる絵を描いてくれたのです。

すずが大好きだった絵は、たとえ右手を失ってもなくならない。いくらでも自分が“笑顔の容れ物”でいられるための“想像力”を、すずは手にしていたのですね。

 

5.原作を読んだらわかる、“切り取られたページ”と“口紅”の意味

最後に、原作コミックを読まないとわからないシーンにも触れておきます。

映画ではたった一度だけ出会っていたすずとリンでしたが……実は、原作ではすずとリンはたびたび再会しており、その結果としてすずがリンと夫の周作の過去の関係を知ってしまい、そのわだかまりをずっと抱えたまま暮らしていくしかなかった、という描写がありました。

これらは映画でカットされましたが、リンと周作が関係を持っていた“証拠”は映画でも残っています。その証拠とは、一瞬だけ登場する“一部が切り取られたメモ帳”です。詳しくは原作を読んでみてほしいのですが、このメモ帳の切れ端を使って、周作は字が書けないリンのために“名札”を書いてあげていたのです。

原作でこれらのシーンを知っていると、「なぜ周作は、すずを水原が寝る場所に追いやったのか」の理由がはっきりしています。周作は過去に遊女のリンと関係を持っていたのに、嫁にすずをもらおうとしていた負い目を持っていた。だから、すずにも同じこと(ほかの異性と寝る)ことをさせようとした、と……。もちろん、周作はちゃんとすずのことを愛しており、自分の意思とは関係なく嫁いできたすずのことを思ってのことなのでしょうが、やはり身勝手に思えてしまいます。

しかし、映画のすずは、このメモ帳の意味を知らないままでした。つまり、リンと周作が関係を持っていたという事実は残っているものの、すずはその事実を知らないまま、周作にわだかまりを持たないままでいられたのです。これらのリンのエピソードをカットしたのは、過酷な現実を生きるすずに、知らなくていいことまで知って欲しくない、少しでも救われてほしい、という片渕監督の想いの表れなのでしょう。

また、すずのカバンから転げ落ちた“口紅”にも、原作では重要な意味があります(ショッキングでもあるので、原作を未読の方のためにその意味は内緒にしておきます)。これは原作だけにある“桜の木の上にすずとリンが登る”シーンでわかる出来事でした。(※以下の海外版の予告編で、映画でカットされた桜の木のシーンを一瞬だけ見ることができます)


 

おまけ.たくさん新しい発見が見つかる作品だ!

このほかにも、映画『この世界の片隅に』は、何度観ても新しい発見があるでしょう。当時の状況を知ってこそ、意味がわかるシーンも満載なのですから。

たとえば、女学生たちが駅前を「勝利の日まで」を歌いながら歩くという原作にないシーンがあるですが、この女学生たちは後で防空壕に生き埋めになってしまったのだそうです(監督は、彼女たちを救おうとした男性の話を元にこのシーンを作ったのだとか)。

また、すずは“初夜”の前にお風呂に入っていたのですが、昭和30年ころまでは、毎日のように風呂を沸かしている家はあまりなかったのだそうです。つまり、このお風呂は“初夜のために体をきれいにする”という意味もあったのでしょう。そういえば、水兵になって戻って来た(この後にあわやすずと寝そうになった)水原も、お風呂に入っていましたね。これもまた、すずと妹のすみが一緒にお風呂に入るというかわいらしいシーンのおかげで、ちょっと気づきにくくなっています。

こうした“盲点”は、まだまだたくさん見つかるはずです。本作をもう一度劇場で鑑賞する時に、ぜひ新たな発見をしてみください!


 

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