「ある日、一気に『熱情』を弾いた」
大:このタイミングで、この3曲が体に合ったと。ア:はい。特に『熱情』がそうですが、永らく弾きたいと思っていましたが、自分に無理強いすることは決してしたくなかったのです。忍耐強く待ち続け、ある日ピアノに引き付けられ一気に『熱情』を弾き「これはレコーディングできるものがある」と思いレコーディングしたわけです。その時点では「『熱情』は人前で弾くのはまだだな」と思っていましたが、時間が経過して、来年くらいなら人前で弾いてもいいなと思っています。今年はまだ弾けません。今その考えが変わりつつあるのです。
大:録音を聴いた印象は、要素が流されることがなく、一旦音楽をバラバラにし、一つひとつの要素を受け入れて再構築するような印象を受けますが、出来上がったものを聴くと、小説を読むような感覚がありました。こういった感想を持ったことに対してどう思いますか?
ア:名指揮者のブルーノ・ワルターも言いましたが「惰性になってはいけない」のです。どんなときも初めて演奏するかのように、神聖な気持ちで演奏することが大事だと思うのですが、私は不思議なことにそれを意識せずともそういう感じにできるところがあります。それは本を書くときも同じで、何か変わったことや、前に書いたのより新しいことを書こう、とは意識しなくて、次々と自然に新しい物語が紡がれていく。人生もそうですけれど、同じ事を繰り返そうという意識がないので常にクリエイティブな新鮮なものが出てくる。音楽を演奏する姿勢、文章を書くときの姿勢、人生を生きる姿勢、どれも同じなのかもしれませんね。
大:小説のように感じても悪くないですか?
ア:勿論ですよ。ありがとうございます。非常に賛辞の言葉をいただけたと思い、受け止めましたよ。今回のプロデューサーと話したことなのですが、ベートーヴェンというのは何かを語らんとしているところがある。モーツァルトもドラマ性がありますが、でもやっぱり音楽ありきというところがあったのに対して、ベートーヴェンは語らんとしていた人でした。「小説のよう」というのも、語るべき物語を読んでいただけたのだと思います。だから小説と言っていただいて光栄です。
大:良かったです! 演奏するときに大事にしていることは何ですか?
ア:プログラムを準備するときは、まず作曲家の書いたそのままに忠実に準備をします。そして完全に体の中に入れてしまうと、ステージに出たときに、ここはピアノで演奏しなければ、フォルテで演奏しなければ、ということからは解放され、自分の中から湧き出てくるものを演奏できるのです。
それは、自由奔放な作曲家の意図を全て無視するようなものにはなりませんし、あれをしなければ、これをしなければ、ということにもなりません。
大:『悲愴』冒頭の長い和音に始まり、スタッカートを強く感じる箇所など、かなり個性的な自由な演奏だなと思い、2度目は楽譜を見ながら聴いたら、どれも楽譜に書かれた指示であることに気付いて「今までに聴いてきた演奏は何だったんだ?」と思いました。アファナシエフさんの演奏を聴いて違和感を覚えたのは、今までに聴いてきた演奏との違和感というだけであって、慣れてみるとアファナシエフさんの演奏の方が本当の音楽というように受け入れられてきて。今はこっちの方が頭を占めています。
ア:ありがとう。おっしゃるとおりで、楽譜を見ず録音や演奏だけを聴いていると、それが正しいと思い込んでしまいますよね。シューベルトのソナタト長調の2楽章でも同じことがあって、ブレンデルもリヒテルもギレリスもなぜかスタッカートをレガートで演奏している箇所があります。スタッカートというのは、曲のキャラクターを変えてしまうほどの重要な指示であって、ここは歌う要素を出すために入れなければならないです。私のスタッカートの演奏を聴いて「間違っている」と書いた批評家が何人もいましたが、楽譜をちゃんと見たと思われる方々は、そうは批評しませんでした。