全米中に吹き荒れたトルネード旋風から20年
この出来事により、日本人選手は以後20年に渡り、メジャーでやれる自信を持つことができた。同時にアメリカ人にとって、明るい希望と自信を回復することができた。
1995年シーズンは、暗い気持ちでのスタートとなった。ワールドシリーズすら史上初めて中止となった前年度のストライキは、4月に入ってようやく終わりを告げ、162試合のペナントレースが144試合に縮小されての開幕。ファンを置き去りにして行われたストライキによって離れていってしまったファンの気持ちは、なかなか戻ろうとはしなかった。
そんな中、野茂は5月2日(同3日)に初登板を迎えた。しかし、好投すれど、勝ち星に恵まれなかった。4戦目に7回14奪三振と快投を演じたが、結局、5月は0勝1敗、防御率3.82で終わった。
ところが、月が改まると目を見張るスパートをした。1試合16奪三振や、2試合連続13奪三振での連続完封を記録し、6月は6勝0敗、防御率0.89。“トルネード旋風”が日本はもとより、全米中に吹き荒れ、球宴出場を確実なものとしたのである。
オールスターでも快投、野茂人気は沸点に達する
「夢の」と付くくらい、メジャーの球宴は特別なものだ。日本とは違いたった1試合しか行われないため、選ばれても出場できない選手もいるが、そんなことは関係ない。選ばれること自体が最高の名誉、栄誉となる。開催地も、何しろ30年に1度しか回って来ないため、1週間前からお祭り騒ぎとなり、夢の大舞台を盛り上げる。その、まさしく檜舞台で、野茂はナ・リーグの先発を務め、ア・リーグ先発のランディ・ジョンソン(当時マリナーズ)と投げ合い、2回を1安打無失点、3三振と堂々たる投球を披露したのだ。この瞬間、野茂の人気は“沸点”に達し、アメリカの威信も回復した。野茂の登板は全米中はもとより、日本を中心としたアジア各国、ヨーロッパでも中継され、野球がアメリカの国技であることを改めて印象付けた。この威信回復が、ストライキで離れていたファンの心を呼び戻し、再び球場に足を運ばせたのである。
ファンが球場に足を運ぶ理由は、大きく分けて2つあるといわれる。1つは豪快なホームランを見たいこと。そして、もう1つはピッチャーがバッタバッタと三振の山を築くのを見たいことだ。
野茂はルーキーイヤーのこの年、リーグトップの236個もの三振を奪った。メジャーリーグの、いや、アメリカ人の威信回復に大きく貢献したのは言うまでもないが、その偉業を1人の日本人が成し遂げたことに意義がある。
野茂は「野球人気を再燃させたヒーロー」として語り継がれる存在だろう。