メジャー最低年俸の1600万円から歴史を動かした野茂

20年前、野茂の渡米によって新たな歴史の1ページがめくられた。

20年前、野茂の渡米によって新たな歴史の1ページがめくられた。

もう「フィーバー」という言葉は使わないだろう。しかし、20年前に野茂英雄が日本とアメリカで巻き起こした騒動は、「フィーバー」という表現がピッタリだった。そして、生まれた「NOMOマニア」という言葉。新たな歴史のページがめくられたのは、間違いなかった。

野茂は1995年2月8日(日本時間9日)にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。年俸は近鉄時代の1億4000万円から1000万円になった。そして、同年5月2日(同3日)のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たした時、年俸はメジャー最低年俸の1600万円になった。その差は600万円。そのわずか600万円は、今となっては何十億円、何百億円の価値となっている。

野茂がメジャーリーグの扉を開いたおかげで、この20年間に総勢55人もの日本人メジャーリーガーが誕生した。歴史を動かした5・2デビュー。しかし、野茂という“日本人野球選手”を全米中に知らしめたのは、20年前の6月だった。

6月2日(同3日)のニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日(同15日)のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録する。24日(同25日)のジャイアンツ戦で日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を飾り、29日(同30日)のコロラド・ロッキーズ戦までで球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。2完封を含む6勝0敗、防御率0.89という“輝かしい6月”が、野茂の人気を不動のものとし、初のオールスター戦出場(先発)、新人王につながっていった。


メジャーリーグ“取材”でもパイオニアだった野茂

その年、私は野茂の登板をすべて取材した。取材する側からすると、取材される側も含め、何もかもが初めてだったことが、あちこちで混乱を引き起こす要因になった。

野茂を球場で取材するためにその主催球団からクレデンシャル(取材許可証)をもらわなければならないが、これだけ多くの日本人報道陣が押し寄せてくることなんて初めてだけに、クレデンシャルが出なかったり、記者席が用意されてなかったりしたのである。

日本人の記者やカメラマンの多さには、地元メディアも露骨に嫌な顔をしていた。野茂本人も取材陣の多さや取材そのものに嫌気がさし、「守り」に入る。日本人報道陣とも軋轢も生まれた。もう少し打ち解けた雰囲気で最初から関係を築いていれば、野茂の人間性をもっと表現できたかもしれないとの反省が残る。

野茂以降、メジャーリーグ側と日本の報道陣との間で取材のルールが確立し、問題はなくなった。そういう意味でも野茂は「パイオニア」だったのかもしれない。ちなみに、野茂は1996年、2001年と2度ノーヒットノーランを達成しているが、2度とも現地で見た日本人記者は私だけであり、誇りに思いたい。

あれから20年。毎年、日本人メジャーリーガーが誕生したが、今年初めて1人も生まれなかった。ひとつの区切りがついたのかもしれない。


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