2015年3月11日で原発事故から4年になる直前の飯舘村を訪ねました。
飯舘村づくりアドバイザーを務める建築家・佐川旭さんのお声がけでもあり、飯舘村長の菅野典雄さんが迎えてくださいました。「飯舘村を忘れないでほしい。そう言い続けても忘れられてしまうもの。でも自分たちが前向きであれば、応援の手もあるだろうと思っています。」
飯舘村の前向きさとは、どういったことでしょう。

美しい村から人も家畜もいなくなった

美しい村に放射能が降った
突然村は汚染された
人も家畜も村を追われた
仮役場

飯舘村役場飯野出張所

飯舘村役場飯野出張所として飯野町に設けられた村長室に、福島県の書家による作品が飾られています。そこには、こう書かれていました。

東日本大震災が発生したとき、飯舘村に大きな被害はありませんでした。むしろ、被害のあった近隣から被災者を受け入れていたといいます。そこで発覚したのが放射能漏れの事故の影響。全村避難を余儀なくされました。

4年目を迎える今では、20の行政区のうち1つの帰宅困難区域を除き、19の行政区で除染が進んでいます。施設や住宅などの除染は終わり、田畑の除染を3分の2程度残している状況です。泊まることはできませんが、日中に村内に立ち入ることは可能です。

私も飯舘村に入ってみました。飯舘村は、阿武隈山系北部の高原に開けた豊かな自然に恵まれた美しい村です。今村内にいるのは、除染のための車両や作業員が中心で、ガソリンスタンドや自動車整備工場、建築関連業者など、認められた一部の店が営業しています。
飯舘村

震災前と変わらない風景が残されているが、あちこちに放射線量計が設置されている

フレコンパック

除染による汚染土壌が黒いフレコンパックで仮置場に保管されている

飯舘村内の本来の村役場にも、除染や道路調査などを担当する課の職員が通勤しています。空き家などを犯罪から守るための「見守り隊」(2014度は196人)が村をパトロールしていますが、これは雇用創出にもつながっています。
村役場

左)飯舘村役場。隣接する村営書店は除染事務所となっている 右)訪問日の放射線量は0.41マイクロシーベルトだった


三宅村に学んだ帰村への布石

震災後、飯舘村では、噴火により全村避難となった東京都三宅島村長にお話をうかがって、いくつかのヒントを得たそうです。まず、「リスクコミュニケーション」の重要性。三宅島では、噴火による有毒ガスについて勉強したというのを参考に、放射能について村民が理解できるように勉強会や情報発信をしています。

また、帰村までのプロセスの重要性についても。三宅島では帰村時に村民の60%、役場の職員も半分しか帰村に至らなかったそうです。飯舘村では、それならば村民ができるだけ近くに避難できるようにしておこうということで、いち早く避難先に災害公営住宅を建設しました。
復興公営住宅飯野町団地

復興公営住宅飯野町団地。23戸(3LDK9戸、2LDK14戸)の住宅は、コミュニティホール(ふれあいホール)を円で囲むように建ち並んでいる
 

ふれあいホール

ふれあいホールでは、親や子が安心して集まれるように、さまざまな設計上の工夫がされている

川俣町の工場跡地を買い取って草野・飯樋・臼石小学校3校合同の仮設校舎を建てたり、飯野町に草野・飯樋幼稚園の仮設園舎を建てたり、電機部品工場を飯舘村立中学校の仮設校舎に改築したりして、スクールバスでそれぞれ通学できるようにしました。その結果、幼稚園で35%、小学校で49%、中学校で56%の子どもたちが継続して通っています。

そのうちのひとつ、村立中学校を見学しました。既存の建物を極力残しながら、内装に木をふんだんに使ったデザインが特徴です。校庭では生徒たちが野球をしていました。
仮設校舎外観

改築によって仮設校舎となった飯舘中学校(外観)
 

内観

木を多用した内観


>>次ページからは、アイディアマンの村長がけん引する、帰村に向けての前向きな構想について見ていきましょう。