例えば「絵画とアニメやマンガ」、「人体像とフィギュア」は似て非なるものです。いや、本当に似て非なるものなのでしょうか?アートとサブカルの境目のような作品の展覧会をしている新宿眼科画廊の田中ちえこさんに、このあたりの話を聞いてみましょう。
時代や環境が変化している現在、サブカルは死語になり、
現代美術は敷居が高いまま
藤田最近、美術館でもアニメやマンガの展覧会が開かれています。田中さんの画廊では、いわゆる現代美術の分かりにくい作品の展覧会もされていますが、アニメやマンガのキャラクターのような作品の展覧会もしています。同じ「絵」であったりするのですが、何がどう違うのでしょうか?
田中
2000年代半ば以降、美術館やギャラリーで、アニメやマンガの展覧会が頻繁に行われるようになり始めてから、美術作品とアニメやマンガの距離は縮まっています。それまで「消費される文化」だったアニメやマンガですが、芸術作品としての価値が見直されていったのです。
藤田
例えば展覧会の入場者数だけ見ても、現代美術の展覧会はガラガラなのに、アニメやマンガの展覧会は行列になっていて、うらやましく感じます。
田中
確かに、現代美術として語られるアニメ、マンガのマーケットは拡大しているように感じます。しかしそのことにより、現代美術とアニメやマンガに相互作用が生まれている実感は乏しいです。ジャンルを横断するような展覧会が行われることで、それぞれに影響があったり、新たなマーケットが生まれても良いとは思うのですが。
藤田
やはり「美術館で展覧会」では、敷居が高いままなのでしょうね。
田中
現代美術は作品の背景を踏まえないと読み解けない、など特殊で複雑な世界です。結局「現代美術」と「現代美術として語られるアニメ、マンガ」は乖離しており、同じ土俵に立っているようで、全く次元が異なる世界のはずです。
藤田
やっぱり「美術」は「芸術」、つまり「高尚なもの」なのでしょうか?そして「アニメやマンガ」は「芸術ではない」、つまり「サブカル」なのでしょうか?
田中
2014年に角川とドワンゴの経営統合が決まった際に、角川会長が「両社は社風も近い。共通点はサブカルチャーだ」と発言していました。それを聞いて私は、サブカルチャー=マイノリティである、という時代は終わったと思いました。同時に、美術の意味や概念が変化していることにも気が付きました。
藤田
なるほど。時代や社会の移り変わりによって言葉の意味は変わりますが、美術やサブカルも変化しているのですね。
田中
2011年8月Kon's Retrospective 今 敏 回顧展 「千年の土産」 / 新宿眼科画廊
一般社会からの「現代美術」に対するニーズというと、感覚的に理解できるものをもっと求められているはずです。日本各地で行われるアートイベント・アートプロジェクトや、美術館のボランティアガイドさん、ギャラリーの敷居を低くする活動をしているという人たちが増えている一方で、美術が「高尚である」とか「変わっている」という、特権意識を持ち続けている美術関係者がいまだに多くいます。
こうした現状がある限り、現代美術が抱える根本的な問題点は、何も変わっていない気がします。閉鎖的な環境が継続している現在、「分かる人だけに理解されたらいい」という状況は、改善されにくいと感じています。
藤田
実は私もここ5~10年間の自分の仕事を通じて、田中さんと同じことを考えていました。10年前に比べれば、現代美術に興味を持つ人たちが増えました。しかし、例えば、テレビ局のような大衆向けに仕事をしている人たちから「現代美術のアーティストを紹介してほしい」と問い合わせが来たときに、彼らが想像する現代美術のアーティストと、実際の現代美術のアーティストは作品や作風がまったく異なります。
田中
そうですね。テレビでは「分かりやすさ」が重視されるので、複雑な背景から理解しないといけない作品などは起用されにくいですね。
藤田
やはり現実の現代美術は「分かる人だけに理解されたらいい」というものであり、私はその部分が気に入っていたりもします。とはいえここ5~10年間、そんな現実の現代美術の作品は、あまりに閉そく感を感じてしまう、自己満足のようなものが増えていて、私はそんな現代美術の作品や展覧会を他人に勧めたいと思わなくなりました。
アートイベントも、行われている地域とアーティストや作品がちゃんと協働できているとは限らない、閉鎖的なアートイベントも多いです。田中さんが言うように「美術作品は分かる人に理解されたらいい」というような閉そく感が、現代美術の発展をダメにしているんですね。引いて考えると、今の日本社会にも似たような閉そく感、世界よりも日本国内で理解できればいい、という閉そく感を感じます。
田中
現代美術の楽しみ方は、そういう「置き換え」をできることであったり、ぱっと見で楽しむだけのものではありません。本質的に一般化する事は不可能な世界と言えるでしょう。
考えるきっかけとして、まずは現代美術に触れよう
現代美術が分かりにくい、と言われて久しい。かたやこの10~15年間、現代美術のアートイベントや、建物も見ごたえのある現代美術の美術館も増えている。今回「現代美術とは何か?」と話を伺ったアーティスト、学芸員、ギャラリストの専門(専業)の人たちは、1974年生まれの私と同世代の30代後半~40代前半。ただのアートファンや自己満足として現代美術に関わっているのではなく、現代美術で社会を変えよう、時代を変えよう、と本気で仕事としている仲間を私は選んだ。明確な答えやひとつの方向性があるとは思えない「現代美術」について、彼らは自分の立場で説明してくれた。
私は読者に、このシリーズ3回分を読んで現代美術を理解できた、と結論づけてほしくない。むしろ「分かったつもりだけど/よく分からないから、現代美術の作品を見に展覧会へ行ってみよう」と動いてほしい。
現代美術は情報ではないし、情報をたくさん持っていることが美術鑑賞ではない。実際の作品、展覧会へ足を運んで、身体や心が何かを感じること=美術鑑賞である。作品を見て「かわいい」とつぶやくだけでなく、その裏にある「なぜかわいい絵を描く必要があるのか」「なぜこのサイズなのか」などを考えてほしい。ひいては「この世の中はこれでいいのか」とまで考えるきっかけとして、現代美術の作品や展覧会がある、と私は思っている。