遺族が後処理に追われては簡素にした意味がない
最近は、喪中ハガキが送られてきて友人・知人の死を知ったというケースも増えています。
直葬(ちょくそう)、つまり儀式をせずに火葬だけで簡単に済ませてしませた場合のよくあるケースをご紹介しましょう。火葬をすませてしばらくすると、友人・知人などから、
「○○さんが亡くなったという知らせを聞きました」
「御挨拶が遅れ、失礼いたしました」
などと、お悔やみの電話や手紙がきます。
たかが電話1本や2本、手紙の1通、2通という人もいますが、遺族は死後の事務手続きや遺品整理、家の片づけなどに追われ、その1つ1つに時間をとられるのが負担となってきます。
さらに御香典が送られてきたら香典返しの準備をしなければいけませんし、花や線香が送られてきたら、それに対してもお礼をしなければなりません。
「こんな大変なことになるなら、小規模でも葬儀をするべきだった」
「葬儀よりも、その後の作業のほうがはるかに大変。葬儀に関することは1度に完結するくらいの気持ちで考えておくべきだった」
などという意見をよく聞きます。
見栄、世間体、しがらみから解放され、自由な最期を迎えたいという逝く側の気持ちはわかりますが、人間何十年も生きていると、仕事関連、地域などの付き合いがあるもの。遺族が事後処理に追われては、簡素にした意味がありません。
「迷惑をかけたくない」という思いがあるなら、事後処理までも視野に入れて、葬儀のことを考えるべきです。簡単に済ませたいのであれば、少なくとも誰に死亡通知を送ったら良いのかなど、人間関係をリスト化しておくことをお勧めします。
死後は当人が関与できない
葬儀は単なる遺体の処理ではありません。「死が怖い」「別れが辛い」「悲しい」そういった気持ちを整理するうえで、故人の遺体を目の前にしたほうが現実を受け止めやすいですし、周囲の人は自分達の支えになってくれます。意味不明(といっては失礼ですが)と思っていたお経でも、「亡くなってはじめて、雑念なく故人のことを考えることができる時間だった」と、厳粛な雰囲気に心が洗われたという人も少なくありません。本人は「儀式不要」「墓不要」と宣言していても、親しい人が故人を見送ることができる場を提供してあげるのは、逝く側の配慮といえるでしょう。
「おひとりさま」「跡継ぎがいない人」には合葬式のお墓が人気
ただ、葬儀開式の3分前に来て、簡単にお経をあげて、法話もなく、遺族との会話もなく、高額のお布施だけ受け取って帰る一部の僧侶を見ると、お経はCDでもかけて流せば十分とさえ思ってしまいます。必要としないのに、高い祭壇や棺を提案されたり、当初の見積書より大幅に金額がUPした請求書を提示されると、葬儀社に対しての不信感も募るものです。
葬儀やお墓など、死にまつわる話題は、一年を通してメディアでにぎわっているのに、死を目の前にした家族から出る言葉は、今も昔も大きく変化することはありません。
「何をしたらいいのかわからない」
「0(ゼロ)葬」というキーワードは、前述のような業者や仏教界への批判の色合いが強いですが、何故注目を浴びているのか、関係者のみならず、一般の人も葬送を考える良いきっかけになれば良いと思っています。
※参考文献「ブッダ最後の旅」中村元訳(岩波文庫)