大東京繁盛記に加能作次郎が書いた神楽坂
まず、『大東京繁盛記』ってなに?って思う人も多いだろう。これは、昭和2年に東京日日新聞に連載されていた人気コラムだ。それぞれの地域を1人の作家が担当して書いた。たとえば芥川龍之介が本所両国、泉鏡花が深川浅景、北原白秋が大川風景、田山花袋が日本橋附近、島崎藤村が飯倉附近、高浜虚子が丸の内といったかんじで人気作家が名を連ねている。そして、早稲田神楽坂を担当しているのが加能作次郎だ。で、次の疑問は、加能作次郎って誰よ、ってことだ。というわけで、困ったときのウィキペディア→
おっと、有名な作家なんだね。この連載が興味深いのは書かれたのが昭和2年だということ。関東大震災から4年ということもあって、その復興の様子が描かれている。また、明治や大正といった時代を懐かしく思い出したりするところや、昭和というこれからの時代に思いを馳せたりする。そして、ここには、多くの店の名前が出てくる。洋食屋だとか寿司屋とか出てくるんだけど、昭和2年のことだから、ほとんど残っていない。少し、引用してみよう。「花街神楽坂」という回の文章だ。
川鉄の鳥は大分久しく食べに行ったことがないが、相変らず繁昌していることだろう。あすこは私にとって随分馴染の深い、またいろ/\と思い出の多い家である。まだ学生の時分から行きつけていたが一頃私達は、何か事があるとよく飲み食いに行ったものだった。二、三人の小人数から十人位の会食の場合には、大抵川鉄ということにきまっていた、牛込在住文士の牛込会なども、いつもそこで開いた。実際神楽坂で、一寸気楽に飯を食べに行こうというような所は、今でもまあ川鉄位なものだろう。勿論外にも沢山同じような鳥屋でも牛屋でも、また普通の日本料理屋でもあるにはあるけれど、そこらは何処でも皆芸者が入るので、家族づれで純粋に夕飯を食べようとか、友達なんかとゆっくり話しながら飲もうとかいうのには、少し工合が悪いといったような訳である。
夏目漱石も川鉄の鶏鍋が好きで取り寄せていたようだ。そして、興味深いのは、普通の日本料理屋にも芸者たちがいたということだ。これらのほとんどのお店は残っていないが、今もあるお店があった。上の文章の続きを読んでみよう。
寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった。
ここに出てくる「紀の善」は当時、有名なお寿司屋さんで、北原白秋なども訪れたそうだ。戦後すぐ、甘味処になり、今は行列もできるほどの人気店だ。うなぎ屋の島金は今も同じ業態で営業している。ただし、今は表記が「志満金」になっている。
さらにこの志満金さん、泉鏡花の「神楽坂七不思議」という作品にも登場している。
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