「失敗」を恐れる意識を捨てる
「起業しよう」とか「挑戦しよう」というと、周囲から「失敗したらどうするの?」という反応が返ってくることがあります。私は投資で3000万円ほど損したことがありますし、会社は2社も潰しています。従業員の集団退職に遭ったり、裁判で訴えられるといった経験もしました。もちろん今でも失敗の連続です。
しかし、私はまったく気になりません。むしろそれを通じて、次の意思決定がますます素速く適切にできるようになっているからです。うまくいっているときは自分の行動の検証なんてしないですから、失敗した時のほうが得られるものが大きいと実感します。だから私は、失敗すればするほど、自分が成長するチャンスだと思っています。
そのため失敗したときは、「おっ!ラッキー!これでまたひとつ賢くなった」と思えるようになりました。
「失敗とは、成功に続く単なる試行錯誤のひとつの結果」、という「ただのプロセスに過ぎない」と考えれば、失敗を単なる失敗とは認識しなくなります。「こっちがダメならあっちを試す」と、まるでスポーツの練習をしているかのごとく、淡々と次の方法へ移ることができます。
その経験と試行錯誤の蓄積によって、決断のスピードが上がり、適切な判断が即決でできるようになります。さらに最近は書く仕事も増えたため、失敗もしんどい経験も、すべてネタとして収益になります。
「そうは言ってもやっぱり失敗は怖い」と感じている人に提案が2つあります。1つは、「何をもって失敗と言うのか?」。2つ目は、「失敗して何が困るのか?」です。
それって本当に失敗なの?
失敗の基準は人それぞれかもしれませんが、失敗の本質とは「狙いや思惑とのズレ」であり、「次の課題が明確になるチャンス」のはずです。失敗とは、「最初はこうなると思ってやってみたけど、実際はそうならなかった」ということであり、その結果「なぜ思っていたことと違ったのか、次はどうすれば思惑通りにいくか」、を認識できる場面というわけです。
ですから繰り返しになりますが、失敗とは本来、極めて重要な学びのチャンスです。逆に言うと、失敗しないということは、次のうちのどれかにあてはまります。
1、「思惑どおりうまくいった」
2、「特に狙いを持たずにやっている」
3、「そもそも何も挑戦してない」
もちろん1が理想です。しかし2や3では、自分が学べるチャンスとはならないでしょう。特に3。失敗を恐れて何も挑戦しなかったり、今の自分の能力の範囲内でできることしかやらなかったりすると、自分が進化することはありません。ただそこに留まり続けるしかない、ということになりかねないのです。
自分が絶対に避けたい「失敗」とは
そこで、自分にとって本気で困る失敗を定義してみるのです。たとえば「こういう事態は絶対に避けたい」「こうなったら再起不能」「物理的にも精神的に立ち直れない」というものです。ちなみに、私の「失敗」の定義は次の3つです。・自分や自分の大切な人が死ぬこと
・他人を死に追いやること
・10年以上の禁錮刑に処されること
自分が死んだらすべて終わりです。再起も何もできない。でも、生きていれば必ずいいことがあるし、やり直しも逆転もできる。だから私は、自分が命を落とす可能性がある行為、たとえばスカイダイビングや雪山の登山、暴力団との取引などは絶対にしないと決めています。
他人を死なせることも私にとっての失敗です。心の傷が大きく、トラウマとなり、精神的にも再起が困難であろうと想像できるからです。だから自分や家族の命を守るため以外では、自分からは絶対に暴力をふるわないと決めています。クルマの運転も、今では「超」がつくくらい安全運転です。
3つ目は、やはり人生の無駄遣い感に心が折れそうだからです。10年あればできることの重さを考えれば、やはりしんどい。だから私は「ごめんね」では済まされない違法性の高いことには手を出しませんし、時間があれば法律書を読み、トラブルに巻き込まれないように意識しています。
そして、これ以外は私にとっては失敗ではありません。なぜなら、これ以外の結果は、いくらでもやり直せるからです。心が復活できるからです。私がほとんどのことに挑戦できる理由がおわかりいただけると思います。
もちろんこれは私の基準であって、あなたは違うでしょう。真似しましょうと言っても「無理だろ!」という声が返ってきそうです。しかし自分にとっての「これだけは避けたい」レベルを定義しておくと、チャレンジできる幅が広がるはずです。
その失敗でいったい何が困るの?
次に、挑戦して失敗した結果、何がどの程度困るのかを具体的にイメージしてみましょう。たとえば「お金を失う」というのは、もっとも普通の人が恐れる失敗ではないでしょうか。起業してうまくいかず、生活費が底をつく。投資をして損失を出す、というのは典型例かもしれません。しかし、たとえば起業して失敗し、生活費が底をついたら、またサラリーマンに戻ればいいだけです。収入は減るかもしれませんが、家賃の安い住居に引っ越せばいい。就職できなかったら、アルバイトで食いつなげばいい。
それでも無理な場合は、生活保護を申請すればいい。生活保護を受けると、さらに家賃の安いところを紹介してもらえるし、医療費はタダ、公共交通機関も割引価格で利用することができます。
借金まみれになって返済が苦しいことは失敗でしょうか?いいえ、「自己破産」すればいいだけです。自己破産は法律で認められた救済制度であり、生活や人生が破壊されるわけではありません。普通に銀行口座も開けますし、学校も会社も海外旅行だって行ける。
破産後7年間は、ローンを組むとかクレジットカードを作るとか、経済的信用力を要する行為は制限されます。しかし7年経てば、個人信用情報データベースから自己破産の情報も消え、ローンも組めるしクレジットカードも作れるようになります。弁護士費用はかかりますが、分割払いができますから、それほど負担感はないでしょう。
そして、生活保護を受けていても、自己破産しても、新しく事業を立ち上げたり、どこかに就職して働くことは何の問題もありません。まったく自由です。そう考えると、「お金の失敗」というのは、さほど気にならないことだとわかります。
それって本当に恥ずかしいの?
そう言うと、「何言ってんだ!生活保護や自己破産は大問題だろう!」という反論があるかもしれません。確かに多少の不便はありますが、でもその程度です。生活保護も自己破産も、国が定めた、れっきとした制度なのですから、必要性を感じるなら、活用しない理由はないでしょう。それで騒ぐ人は肝っ玉が小さいのです。
ではなぜ肝っ玉が小さくなるか?ひとつの理由は「ぜいたく病」にかかっていること。もうひとつの理由は「自意識過剰」。
ぜいたく病にかかった人は、家賃の安い賃貸に引っ越すこと、外食ができない、新しい服を買えないことといった、生活レベルを落とすことができなくなります。不便な環境が許せないし、そんな自分を受け入れることができないのです。しかし現在40代以上の人は、思い出せばわかると思いますが、子供の頃は何もなかったはずです。
私の実家もそうでしたが、エアコンも水洗トイレもありませんでした。風呂は五右衛門風呂で、シャワーもない。毎日両親が薪をたいてお風呂の湯をわかしていました。
また、現在のように高気密・高断熱の技術はありませんでしたから、家では冬は寒く、夏は暑い。もちろん携帯電話もパソコンもありません。だからといってあの環境に戻りたいとは思いませんが、そういう時代を知っていると、多少の不便にはすぐに慣れ、気にならなくなります。
だから、もし貧しくなったらボロアパートに引っ越せばいい、と気軽に考えることができます。
他人はあなたのことには興味がない
また、他人は自分が思うほど、自分のことは見ていませんし、興味もありません。自分の失敗なんて、他人はほとんど気にしていない。一瞬は気にしても、すぐに忘れるものです。私自身、親戚が自己破産した、知人が起業したけど失敗してサラリーマンに戻った、東京ビッグサイトを借りきって巨大なイベントを企画したけど人が集まらなくて大赤字だった……という情報を耳にすることがあります。
もちろん、本人にとってはとても苦しい経験だったと思います。それでもやはり、「へー」という感じで、それ以上でもそれ以下でもありません。あの著名な与沢翼氏を見ると、むしろ「あの若さですごく貴重な経験ができたな」と感じるほどです。
失敗を恐れるのは、「恥ずかしい」という世間体です。バイトで食いつなぐこと、生活保護を受けること、倒産や自己破産することを「そんなのムリ」と感じる人は、人の目を気にしすぎる「自意識過剰」なのです。
そもそも自分が気にしている「世間」の正体とは何か?たとえば職場の同僚や上司部下、近隣住民、家族や親戚……。いったい誰に見栄を張ろうとしているのでしょうか。
そもそも「世間」とは、「凡人」の集まりであり、「大衆」です。たとえば知人や近所の人にヒソヒソうわさ話をされたとしても、彼らはあなたの成功には何ら貢献しない人たちです。そんな人たちに張る価値のある見栄とは、いったい何でしょうか。
一流の人というのは、他人の不利な状況を見てバカにする、という発想はありません。なぜなら、彼らはたいてい浮き沈みのある人生を経験していて、現時点の状況だけを見て他人がどうこう言うのは、愚かな振る舞いだと本能的にわかっているからです。
さらに当然ながら、彼らは失敗の経験こそ貴重な財産だということを知っています。アメリカでは、失敗したことのない人は、経験不足で逆境や挫折にも弱いということで、一度でも会社を潰したことのある起業家に優先して投資する個人投資家もいるほどです。
つまり、あなたのことを笑う人がいても、そんな人はどう考えても大成しないのですから、どうでもいい存在ということ。どうでもいい人の目を気にして、「恥ずかしい」などと感じる必要などないのです。だから、「自分が良ければそれでいい」くらいに考えて、気軽に挑戦することです。
参考)
「1つずつ自分を変えていく 捨てるべき40の悪い習慣」(日本実業出版社)
「やりたくないことはやらずに働き続ける武器の作り方~だれでも人生を複線化できるお金と時間の仕組み」(徳間書店)