「郵便汽船三菱会社」の活躍
日本郵船の前身の1つ、「日本国郵便蒸気船会社」が経営に行き詰まり、明治8(1875)年1月10日に岩崎弥太郎の「三菱汽船会社」が継承することになりました。この時、社名も「郵便汽船三菱会社」と改称され、同時に政府からの補助金を受けつつ横浜上海間の定期航路を開設するように命じられました。まもなく同社はアメリカの海運会社(パシフィック・メール会社)の横浜上海航路(支線)に価格競争を行い、その営業を断念させました。もっとも横浜サンフランシスコ航路(本線)はパシフィック・メール会社の便に頼るほかありませんでしたが、横浜上海間を自国で独占的な定期航路としたのは日本の外国郵便(明治8年1月1日開始)の発展上でも大きな意味がありました。
(参考文献 篠原宏、『外國郵便事始め』、日本郵趣出版、1982年)
二引の旗の「日本郵船」へ
ところが、郵便汽船三菱会社の台頭を快く思わない渋沢栄一、榎本武揚などの有力者たちは、明治15(1882)年に「共同運輸会社」を設立しました。両社は激しい競争を行い、間もなく互いに疲弊していきました。最終的に農商務卿の西郷従道が両社の合併を命じ、明治18(1885)年に「日本郵船」が誕生しました。しかし岩崎弥太郎は新会社の設立を前に死去しています。白地に赤い線を入れた二引(にびき)はこの時にできた社章で、直接的には二社の合併を意味していますが、岩崎弥太郎の世界一周という理想を表したものとも言われています。
「日本郵船」の活躍
その後、「日本郵船」は日清戦争、日露戦争で大きな役割を果たし、莫大な利益を上げました。それを原資に着々と遠洋航路を築きました。昭和の初め頃に日本郵船が発行した絵はがきには、当時の日本郵船の航路が誇らしげに描かれています。「日本郵船歴史博物館」の展示の中で特に注目いただきたいのは、華やかさを競った豪華客船の一角です。横浜サンフランシスコ航路に使用され、太平洋の女王と呼ばれた「浅間丸」などの模型が展示されていて、往時の船内の様子を今に伝えていて、とても良い雰囲気です。切手収集家ならば、WTO(無線電信取扱所)の消印が思い起こされるかもしれません・・。
「日本郵船」と戦争の時代
しかし華やかな豪華客船の時代はあまり長く続きませんでした。1937年に日中戦争が起こり、1941年10月までにすべての遠洋定期航路は休止することとなりました。日本郵船の船舶は戦時徴用を受け、戦争前に133隻を保有し、89隻が戦中に建造されましたが、1945年8月15日時点で残っていたのはわずか37隻のみ。そのうち太平洋を横断できる性能を持っていたのは、病院船として徴用されていた氷川丸(山下公園に係留)だけでした。氷川丸は例外的に1960年まで遠洋定期航路で活躍し、その後は山下公園に係留され、現在は「日本郵船歴史博物館」の一部として公開されています。豪華客船の雰囲気や船内での暮らしをイメージするには絶好の場ですし、船上から山下公園を一望するのも格別です。
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