事後、いたずらに拡大された責任
論文不正における彼の責任は、端的に言って監督責任にとどまるものだ。小保方氏による論文不正を見抜けなかった落ち度はあるとはいえ、彼自身が不正を行ったわけではない。強いて言うとしても、再生医療に革命的な発展を起こしたいという強い気持ちがあった中で起きた、いわば「勇み足」という表現が限度だろう。
しかし一部のマスコミは、あたかも笹井氏が犯罪者であるかのごとく報道を行った。そして日本社会では、何の被害を受けたわけでもない無関係の人間が、まるで自らが天罰を与える神であるがごとく、笹井氏を一斉に断罪した。
噴出する理研の腐敗体質
それに拍車をかけたのは理研の腐敗した体質だ。笹井氏のメールが本人に無断でリークされたのである。メールは「私信」である。本人に無断でその内容を閲覧することは本来はあってはならないことであるが、近年、会社の設備を利用した社員個人のメールを、人事上の理由で会社が閲覧することはしばしば行われてきた。
ただしそれはあくまで人事上の理由として必要最低限の範囲にとどめられるのが前提であり、社外に漏らすとなれば話は全く別だ。
しかし理研ではそれが行われた。笹井氏のメールが、あくまでゴシップの対象としてリークされていたのだ。これは理研における情報管理が根本から問題を抱えていた証拠とも言える。
これは理研そのものあるいはその一部に、問題を解決し信頼を回復することよりも、笹井氏を貶めることに意識が向いていた人がいたという証拠に他ならない。
笹井氏の死を「自殺」と考えてはいけない
ところが世間ではその点が積極的に論じられることはなかった。究明されるべき真相は棚上げされ、一科学者の失敗については牙を剥き襲いかかる。国民もそれに同調し野次馬と化す。こうして、日本全体が一科学者の落ち度を標的にし、再起不能なまでに叩きのめし、ついに命を絶たせてしまった。
これを日本社会による集団リンチと言わないで、他に何と表現すればよいのだろう。
笹井氏のミスは意図的に世界を欺こうとしたものではなく、不幸にして生まれた落ち度に過ぎない。しかもその落ち度を最も悔いたのは笹井氏本人であり、その失敗を取り返そうと最も努力したのも笹井氏本人だったはずだ。
本来、仕事におけるミスは仕事で挽回すればよく、それ以上でもそれ以下でもないが、日本社会は彼の一つのミスをやり玉にあげ、彼から社会的自由と居場所を奪い、犯罪者のごとくののしった。
彼の死を「自殺」と考えてはいけない。彼はマスコミや日本社会によって殺されてしまったと考えるべきだろう。
しかし彼の死から数日が経過した今になってもなお、そうした反省が報道の俎上に上らないことが、この国に生きる一人として恐怖を感じる。