Momus曲にノックアウトされて
ガイド:nOrikOさん、はじめまして。POiSON GiRL FRiEND (PGF)としては、約20年ぶりのアルバム『rondoElectro』を7月14日にリリースされますが、先ずは90年代のお話からさせてください。ユニット名となったPOiSON GiRL FRiENDは、Momusさんの「Poison Boyfriend」という曲がインスピレーションなったと理解していますが、この曲に特に思い入れがあったのですか? セカンドとなる『MELTING MOMENT』の後、Momusさんは『Shyness』(1993年)と『Mr. Polyglot Remix』(1993年)でプロデューサーとなりましたが、命名の時点でMomusさんとはお知り合いだったのですか?
MELTING MOMENT (amazon.co.jp)
SHYNESS (amazon.co.jp)
Mr. Polyglot Remix (amazon.co.jp)
nOrikO :
Momusの1987年に発表されたアルバム『The Poison Boyfriend』の中の「Murderers, The Hope Of Women」という曲にノックアウトされたのです。その当時、The Smithsを中心とした、ネオアコという音楽ジャンルが好きでした。Momusとは、全く知り合いではなかったのですが、Momusのファンの方が、彼に私のCDをプレゼントしてくださり、気にいってくれてその後Momusからレコード会社へラヴコールが届いたのです。1992年の秋にロンドンで初めて彼と会い、その時にはもう『Shyness』のデモテープが5曲位できあがっていました。まだ、レコード会社との契約も決まっていなかったので、エンドルフィンで続投するか、日本コロムビアに移籍するか、という悩みもありました。
アコースティックからクラブミュージックへ
ガイド:てっきりタイトル曲と思っていましたが、アルバムに収録されていた曲だったんですね。
話をデビュー時に戻しますが、デビュー・アルバム『POiSON GiRL FRiENDS』を発表されたのは、1991年。この世界に入っていこうと思われた理由をお聞かせください。
POiSON GiRLFRiENDS
nOrikO :
元々、シンガー・ソング・ライターとして、1988年にポリドールと契約したのですが、その時はネオアコ好きで、アコースティックギターを全面に出していました。その後、1989年にロンドンのクラブでハウス・ミュージックと出会い、一気に心は打ち込み、ダンスミュージックへと傾きました。日本に帰ってきてから、偶然Club Psychics という、1980年代ニューウェイヴとテクノやボディ・ミュージックがかかるパーティーを知り、ますますクラブカルチャーにのめり込みました。1991年に発表した『POiSON GiRL FRiENDS』は、クラブで出会ったDJや友達がたくさん参加してくれています。
ガイド:
nOrikOさんご自身もDJとしても活動され、クラブカルチャーの洗礼を受けたんですね。よく、日本のクラブカルチャーと欧米のクラブカルチャーの違い、最近ではクラブでのダンス規制がよく話題となりますが、黎明期から実体験をされてきたnOrikOさんのご意見をぜひ伺いたいです。
nOrikO :
実は16歳の頃から、踊りに行くのが好きでした。80年代当時は、IDチェックもなく高校生でも学校帰りに踊りに行けたのですよ。ニューウェイヴが好きでしたので、大貫憲章さんのロンドンナイトとか、アダム&ジ・アンツが流行っていたので、眼帯して海賊パーティーに行ったり、ニューロマンティックスのフリフリの格好をしたりと。家でひとりでレコードを聴くよりも、大きな場所で大音響でみんなと音を共有する感覚が好きでした。
カラオケボックスに閉じこもるよりは、よっぽど健全だと思いますので、何故規制が入るのかわかりませんが、おそらく風営法は見直されていくものだと信じています。欧米のクラブと日本との違いは、まず、クロークの問題かなぁと。ちゃんとコートを預かってくれるのです。日本だと、小さなコインロッカーにコートを丸めないといけない。些細な事ですが、女性としては気になります。