G馬場の名の下に再出発する全日本プロレス
あれから1年、全日本プロレスは新たな局面を迎えました。これまで全日本は白石氏が社長を務める株式会社レッドウォールジャパンの子会社の株式会社全日本プロレス・システムズが運営していましたが、7月1日をもって秋山準が設立した新会社オールジャパン・プロレスリング株式会社が全日本プロレスの運営会社となり、全日本所属13選手全員と全社員がこの新会社に移籍して、新体制で再出発することになったのです。
秋山を中心に新体制の話が持ち上がったのは今年に入って選手たちのギャラの支払いが滞りはじめたことが原因でした。
「全日本プロレス・システムズを離れて新たな運営会社を作るのが全日本を再生させる最善の道」という機運が盛り上がり、創始者ジャイアント馬場の直弟子でもある秋山が周囲からの要請で新会社設立を決意。6月末の契約切れを待って新会社オールジャパン・プロレスリングをスタートさせたのです。
恩讐を越えて馬場元子夫人が全面協力
この新会社設立にあたって秋山は馬場元子夫人に相談。専修大学レスリング部主将だった秋山は馬場に「未来のエースになる男」としてスカウトされて92年3月に全日本に入団して同年10月にデビュー。2000年夏に起こった初めての全日本分裂騒動では全日本を飛び出してプロレスリング・ノアの設立に参加しましたが、12年12月末でノアを退団して昨年1月からフリーとして古巣・全日本に参戦。昨年の分裂騒動の際には「2度も全日本を裏切れない!」とフリー契約を打ち切って、あえて全日本所属になりました。
そんな秋山に相談を持ち掛けられた元子夫人は「いろいろあったけれども、馬場さんはいずれあなたを社長にと考えてスカウトしたのだから、これも運命かもしれない」と快く全面協力を約束。7月4日の新会社設立会見は元子夫人の手配で東京・永田町のキャピトル東急ホテルで行われましたが、同ホテルはかつて馬場が自宅のように過ごしていた場所で、秋山にとっても91年7月に初めて馬場と会った思い出深い場所でした。
元子夫人は05年2月5日の日本武道館における『G馬場七回忌追善興行』を最後にプロレス界引退を宣言して以後は公の場に出ることはなかっただけに、この設立会見に姿を見せたことは関係者にとって驚きでした。
新たな形の映像配信、ファンクラブなどの戦略も打ち出す
さて、秋山・全日本ですが、社長には秋山、専務には諏訪魔が就任。馬場元子夫人は相談役になりました。そして会長には東北ケーブルテレビネットワークとケーブルテレビ山形の社長を兼ねる吉村和文氏、副社長にはケーブルテレビ山形と業務提携する岩手ケーブルテレビジョン社長の笹原美喜夫氏が就任しました。吉村氏は馬場元子夫人とかねてから親しく、今回のオールジャパン・プロレスリング設立を支援。ケーブルテレビ山形が全日本プロレスの放送通信権、グッズ販売権などを持ち、同社内にそうした通信放送やグッズなどの企画・運営を行う全日本プロレス・イノベーション株式会社の本社を置き、オールジャパン・プロレスリングはその子会社という形になります。オールジャパン・プロレスリングは興行部門を担当する会社として神奈川県横浜市の全日本道場を事務所にしました。
一番の問題は新会社が『全日本プロレス』を名乗って興行をできるかでした。全日本プロレスの商標権は白石氏が所有していたからです。これは記者会見前日の7月3日夜にクリアされ、晴れて全日本プロレスの名前で活動することができるようになりました。
秋山は「全日本プロレスはジャイアント馬場さんですよ。別に馬場さんの名前を消す必要はない。僕が今ここにいるってことは、今も馬場さんに助けてもらっているということ。僕の中からジャイアント馬場を消すことはできないです」と王道プロレス継承を誓っています。来年は馬場の17回忌でもあり、17回忌追善興行開催も当面の目標です。
今後の展望としてはケーブルテレビ山形が付いているだけに従来のサムライTV、GAORAスポーツでの中継に加えて、ケーブルテレビやインターネットを利用したビデオオンデマンド形式の映像配信サービス「アクトビラ」などで広く発信するメディア戦略、そして公式ファンクラブによって全国のファンとの連携を考えているようです。
「僕が入った頃の全日本は新日本プロレスと並ぶ2大メジャー団体と呼ばれていました。必ずまた同じ位置に辿り着きます」と言う秋山・全日本は7月12日、大阪・ボディメーカーコロシアム第2競技場から発進します!