コーラも買えない日々から学んだこと
幸せなお金持ちになる方法をお金の女神が伝授!
―ホーさんは16歳で単身渡米されたそうですが、そもそもなぜアメリカへ?
マダム・ホー 私は生まれ持って足に障害があり、1歳までずっと入院生活を送っていました。足はその後、完治しましたが、親には「お前の足が治ったのは皆様のお陰だから、大きくなったら必ず社会に恩返ししろ」と言われて育ったんですね。そんな私が子供心に抱いたのは“将来は、福祉や障害者のためになることしたい”という夢でした。
当時は、まだ昭和の高度成長期でしたから、先進国に追いつけ追い越せで頑張っていた時代。医学も発展しつつありましたが、機能回復分野、今でいう“リハビリ”の分野は遅れていると知りました。その分野ではアメリカが世界一という新聞記事を読み、「アメリカで機能回復訓練の勉強をしたい」と子供ながらに決めたわけです。
――当時、まだ10代の少女が一人で渡米するというのは、かなりの難関だったのではないですか?
マダム・ホー もちろん猛反対されましたよ。私は一人娘でしたし、当時は1ドル300円台の時代でしたから、誰でも気軽に海外に行ける訳ではなかった。でも、どうしてもアメリカで医療の勉強がしたかったので、1年かけて父親を説得したんですが、何を言ってもまるでダメ。思いつめて、実はリストカットもしています。それほど決死の覚悟だったんですね。それを見て、ようやく親も諦めました。大学から留学すると英語力のハンディがあると思ったので、まずは日本でインターナショナルスクールに通い、私費留学生として渡米しました。
一度、覚悟を決めると人間は強いものです。以前、「はじめに心ありき」と申し上げましたが、やはり、何かをする時には最初にマインドセット(インタビュー第2回目を参照)が大切。それが“絶対諦めない”という鋼の覚悟になると思うんです。
――そうだったのですね。医療の世界から、なぜビジネスの世界へ?
マダム・ホー 大学院を卒業して病院で働いていたのですが、親の介護で一時的に帰国せざるを得ない状況になってしまったんです。当時、私は華僑の夫と結婚してダブルインカムでやっていたのですが、結婚と同時に住宅を購入したのでローンを払っていたんですね。私の収入でローンを払い、夫の収入で生活するというパターンだったのですが、私の収入が途絶えることで、夫の収入をローンに回すようになった。当時はカーター政権で住宅ローンの金利は18%…。非常に高かったんですね。
――18%! 日本のバブル期の住宅ローンが8%だったことを考えても、かなりの高金利だったのですね。
マダム・ホー だから、収入はほとんどローンに消えてしまい、そうとう苦しかったようですね。ある日、暑い日に喉がかわいた夫がコーラを買おうとしたら、お金が足りずに買えなかった。彼も恥ずかしいから「急用の仕事を思い出した」とその場を離れて、唾液を飲んで喉の乾きを癒していたといいます。
実は、私がそれを知ったのは、随分後になってから。夫は、日本で介護している私に不安な思いをさせまいとそういったことは一切言わず、ただ父の様子を心配して母をしっかりサポートするようにと励ましの手紙をくれていたんです。だから、そんな極貧状態になっているとは分からなかった。
――器の大きな旦那さんですね。
マダム・ホー 感謝してもしきれませんね。彼のすごいところは、どんな時でも本当にポジティブな所。日本に3ヶ月間、介護のために帰国したことで病院の仕事をクビになってしまった私は、毎日将来のことを考えて悲観的になっていたんです。でも、そんな私にのほほんと「日本のお米って冷めても美味しいね~」と、笑顔を向けてくる。それを見ていたら、眉間にシワを寄せて悲観的になっている自分が何だかバカバカしくなってしまったんですね。よく考えたら、仕事をクビになったって、目の前のご飯は相変わらず美味しいし、カリフォルニアの青い空は変わらず綺麗なまま。何も変わらない時間と景色がそこにあるわけです。同じ時間を後ろ向きに生きるのか、前向きに楽しい気持ちで生きるのか。心ひとつなんだなと、教えられました。
――まさに「気持ちを切り替えて“マインドセット”」されたわけですね。
マダム・ホー その通りです。“前向きに生きよう”と頭を切り替えたら、友人から医療専門の派遣会社を紹介してもらったり、知り合いの日本人が勤める大企業の社長秘書に推薦されたりと、事態が好転しだして、収入も何倍にも増えました。もともと理系で学者志望だった私が、親の介護で離職せざるをえなくなったことがきっかけで、ビジネスの世界に入ることになったわけですが、やってみたら意外と合っていたんですね。だから若い時は食わず嫌いにならず、なんでもやってみるものだなというのも、そこから学んだ経験ですね。
――不動産投資を始めたのもその頃からですか?
マダム・ホー 親の介護で失業した経験から、「収入には労働収入と不労収入があり、お金持ちがお金持ちなのは不労収入があるからだ」と気づきました。収入を車のタイヤにたとえると、3つから4つあれば、車は止まっていても横転しないということをひしひしと実感しました。ちょうど大学院での夫の専門が建築と構造工学だったので、私達には投資の中でも不動産が向いていると判断しました。
会社員をやりながら、不動産を見極めるために宅建の資格を取るなど勉強を重ね、20代のうちに不動産投資で最初の1億円を作ることができました。
日本を飛び出し、アメリカに来て、初めてマイノリティの存在になったわけですが、そこで感じたのは、外国人の私がこの国でやっていくには、アメリカ社会にご迷惑をかけないだけでなく、平均的なアメリカ国民よりも上をいかなくちゃいけないということ。当時はまだ黄色人種に対する差別も根強くありましたしね。知識とお金を得て、アメリカに貢献するには、起業して雇用を促進しようと考えたわけです。そういう意味でも、目標を叶えることができたと思っています。
★インタビュー第4回では、華僑のお金持ちがなぜ風水を重視するのかについておうかがいしました!
マダム・ホーさんプロフィール
インターナショナルスクールを経て、16歳で単身アメリカ留学。名門南カリフォルニア大学(USC)とUCLAの両大学院修了。父の介護で失業したのがきっかけでビジネスの世界に入り、コーラも買えない貧乏時代から29歳で最初の1億を作る。著述活動を通じて日本人のお金のIQを上げ、日本人ミリオネアを輩出することに生きがいを感じている。2008年にだした「世界一愚かなお金持ち、日本人」は8万部のベストセラー。その後7か国で出版。現在は母校USCの顧問をつとめ、昨年は才能ある若者を支援するために奨学金を作った。「お金の女神」としてメディアでも人気を集める。毎日2回、ツイッターで幸せなお金持ちになるハピネスメッセージを配信中。www.twitter.com/madamho 公式サイトmadamho.com
取材・文/西尾英子