この一区切りに際し、浅田真央とはどんな存在なのか考えてみた。
伝説となった物語のはじまり
2005年グランプリファイナルを浅田選手は優勝した。当時世界一でトリノ五輪の大本命と見られていたイリーナ・スルツカヤ選手(ロシア)を破っての快挙だった。空から妖精が舞い降りたような姿に日本中が熱狂。浅田選手は一夜にして日本で最も有名なスポーツ選手となった。
やがて首相の名前を知らなくても浅田真央を知らない人はいないと言われるほど「浅田真央」は社会現象となっていった。
人々がまるで自分の家族を見るかような気持ちでハラハラしながら演技を見るのは、日本のフィギュアとして初めての経験だった。
華やかな中の悲劇性
時はトリノ五輪の直前。グランプリファイナルに勝った選手であれば五輪に出場するのが普通である。
ところが浅田選手は出場が叶わなかった。五輪出場の年齢規定を満たすには誕生日がわずか20日遅かったのだ。
こうして氷上の妖精は一転、悲劇のヒロインとなった。
彼女と五輪との因縁はこうして始まった。
「強さ」と「はかなさ」
その後の活躍については改めて語るまでもない。常に世界のトップを競い、熾烈かつ華麗に舞った。そんな彼女には「強さ」とともに「はかなさ」が同居していた。
彼女は時々困難に直面した。絶対的な強さを見せる反面、ショートプログラムで信じられないようなミスを犯すこともあった。しかしそんな逆境からフリーで巻き返すのが、彼女のスタイルとなっていった。
世界選手権3回優勝。グランプリファイナル4回優勝。全日本選手権6回優勝。
華々しい実績だ。
しかしそんな彼女の首に五輪の金メダルだけが掛かっていない。
浅田真央という名のミロのヴィーナス
それはどこか、ミロス島で発見されたヴィーナス像に両手が失われていたことを思い起こさせる。「もしヴィーナスに両手があったなら」
世界中で何度も言われてきたことだ。
しかしヴィーナスに両手があったとしたら、人はこれほどまでにヴィーナスのことを思っただろうか。失われた両手に思いをはせるからこそ、あまたあるヴィーナス像の中でミロのヴィーナスに特別な思いを持つのではなかろうか。
15歳から始まった五輪金への挑戦。集大成として臨んだソチ五輪では、ショートプログラムでまさかの16位。
またして五輪の金は消えた。
だがフリーでは生涯最高の演技で人々に金メダル以上の「奇跡」を目の当たりにさせた。
それはまるで最初から運命づけられていたかのような、彼女にしかできない五輪への決着のつけ方のようであった。
「浅田真央」を生きられるのは浅田真央しかいない
引退ではなく休養を宣言した浅田選手。何度も世界の頂点にたった彼女に対し、ぼくたち外野の人間が言えることなど何一つない。
しかし誰よりもスケートを理解する彼女だからこそ、そこから離れることで彼女にしか気づけない何かが見つかるとぼくは想像する。
彼女がどんな決断をするかは誰にもわからない。
しかしどんな決断をしたとしても、それが「浅田真央」だ。
「浅田真央」を生きることができるのは世界で彼女しかいない。
それを知っているのは、誰より、浅田真央選手本人なのである。