ジャガー、メルセデスがポルシェと対決
1982年のルマンを制したポルシェは85年までをポルシェ956で連勝。85年からはアメリカのIMSA-GTP規定に準じた「ポルシェ962C」をワークス参戦および市販し、86年、87年と962Cで足掛け7年連続のルマン優勝を成し遂げた。ジャガーXJR-9
1980年代半ばには数多くの自動車メーカーが多額の資金を投入し、「打倒ポルシェ」をテーマにルマンに挑んでくるようになる。そんな中、ポルシェの対抗馬ならぬ「対抗豹」として急浮上してくるのが英国のジャガーだ。1985年から世界耐久選手権に参戦を開始したワークスチームは86年にルマンに初登場する。ジャガーはスコットランド人の元ドライバー、トム・ウォーキンショウが率いるTWRにワークス活動を依頼。ジャガーはルマンで耐久王ポルシェを追い続け、1988年、ルマン参戦3年目にしてポルシェを破り総合優勝を果たした。ジャガーの優勝は31年ぶり、英国車としても1975年のミラージュ・コスワース以来13年ぶりのことになり、ドーバー海峡を越えて来た英国人達は熱狂した。
ザウバー・メルセデスC9 (ドニントンパークミュージアム)
メルセデス・ベンツもルマンに戻ってきた。1955年のルマン24時間レースで数多くの死傷者を出した大事故以来、モータースポーツ活動から退いていたが、それから30年後の85年にスイスのザウバー(現F1チーム)にエンジン供給を行う形で復帰。88年にはメルセデスが正式にルマンに復帰し、「ザウバー・メルセデス」としてワークス参戦する。熟成されたザウバーC9・メルセデスは翌89年のルマン24時間で圧巻の1-2フィニッシュを果たし、1952年のメルセデス300SLでの優勝以来、37年ぶりに勝利を掴んだ。
ジャガーもメルセデスもルマンのノウハウを持つレーシングチームとジョイントし、ワークス活動を展開してポルシェに挑み、ルマンを制した。しかし、ポルシェのワークスチームは1987年に優勝して撤退しており、ジャガーやメルセデスが打ち破ったポルシェはカスタマーチームのポルシェだった。ポルシェ962Cは1000km程度のレースではジャガーやメルセデスにスピードで負けていたが、24時間の耐久レースともなると実力を大いに発揮。962Cは圧倒的な信頼性の高さで上位完走を続け、世界中のカスタマーチームから愛される存在になった。
日本のメーカーの台頭、マツダの優勝
ポルシェに対抗したジャガー、メルセデスに加え、80年代のグループC規定は経済成長伸び盛りの日本の自動車メーカーにワークス参戦を促した。マツダ787B
1970年代から参戦していたマツダは1980年代半ばから「マツダスピード」として本格的なワークスチームとしての体裁を整えはじめ、ロータリーエンジンでのルマン制覇を狙った。トヨタはルマン挑戦を既に行っていたトムスにワークス活動を委託し、「トヨタ・チーム・トムス」として参戦。日産は1986年から「ニッサン・モータースポーツ(ニスモ)」としてフルワークス参戦し、80年代後半にはジャガー、メルセデス、ポルシェを凌駕するポテンシャルを見せた。
日本車初のルマン制覇を命題に開発されたグループCのモンスターマシンは外国車を打ち破るあと少しの所まで台頭してきていた。しかし、日本車の参戦が本格化する80年代半ば以降、一度もルマンでは表彰台に立てずに居たのが現状であった。
89年、90年のルマン24時間レースでは、ジャガーV12、メルセデスV8、ポルシェ水平対抗6気筒、ニッサンV8、トヨタV8、マツダ・ロータリーと様々なエンジンサウンドが楽しむことができた。メーカーがワークス体制で燃費とスピードを争った華やかで過激な時代。このメーカーがこぞって参戦するグループCの盛り上がりに目を付けたのが、FISA(国際自動車スポーツ連盟)のマックス・モズレーだった。モズレーはF1に自動車メーカーの参戦を促す目的で、91年以降のグループCのエンジン規定をF1と同じ3500cc自然吸気エンジンに変更する暴挙に出た。
1991年は新規定のSWC(スポーツカー世界選手権)の1戦としてルマン24時間レースが開催。ニッサン、トヨタは新規定のマシンを投入できずにこの年のルマンに不参加。しかし、マツダは不利なC2規定のロータリー車でSWCに参戦を続け、ロータリーエンジンのラストチャンスとなる91年のルマン24時間レースを制した。
次のページではルマンにおけるマツダ、90年代のルマンをピックアップする。