その昔は多摩川の渡し場、
戦前には花街もあった賑わいの場
タワーがそびえ、買い物客が集まる東急田園都市線二子玉川駅から二子橋を渡ると、そこは川崎市高津区。二子玉川駅のお隣にあるのが二子新地駅です。ここはかつて大山街道(矢倉沢往還。赤坂御門から渋谷、瀬田を経て二子で多摩川を渡り、足柄峠手前の矢倉沢関所に至る脇街道)の渡し場があった場所で、今も多摩川沿い、街道沿いには碑が残されています。
江戸時代には大山参りが大流行、街道を行きかう人も多かったはずですが、徳川幕府は江戸の守りのため、多摩川の架橋を禁止しており、大正14年に二子橋ができるまでは渡し舟(水量の減る冬場は板の仮橋)が活躍していたそうです。ただし、宿場はあったものの、商家などが集まっていたのは街道沿いだけ。街道をそれると田んぼや畑が広がる、のんびりした場所でした。
その後、二子新地が賑わうのは大正14年に三業地として許可を得て以降。大正時代以来、このあたりの地名は二子(ふたご)で、東急田園都市線の駅名も当初は二子でしたが、その後、新地(関西の言葉で歓楽街)があることから、駅名が二子新地前と変わり、最終的には二子新地(ふたこしんち。濁らない)になったということから、当時は新地の存在が大きかったことが伺われます。実際、戦前の最盛期には100人ほどの芸者さんもいたそうで、現在では想像もつかぬほど賑やかな場所だったようです。
ちなみにお隣の二子玉川にも大正9年に許可を得た花街があり、そこに飽き足らぬ人が舟で渡って遊びに来たのが二子新地だったとか。二子玉川には当時から営業を続けている柳屋という料理屋さんが大きなビルを構えていますが、残念ながら二子新地にはこじんまりした料亭が1軒あるくらいで、当時の面影はほとんど残されていません。そして、その華やぎも戦後になって一気に終息、昭和47~48年頃には三業組合も解散しています。
バーベキューに花火大会、散歩にジョギング
楽しいこと満載の多摩川緑地
以上、二子新地の歴史を見て来ましたが、続いて現在の二子新地の様子をみていきましょう。高架となっている駅の改札を出ると、左右に細い商店街が広がっていますが、ここは、まず左、多摩川方面に向かってみましょう。少し歩くと商店街は大山街道と交差、それを右に向かうとすぐに多摩川が見えてきます。広々とした河原の、二子橋の右手には川崎市多摩川緑地バーベキュー広場があり、好天の週末には煙が立ち込め、広場が埋め尽くされるほど。対岸の世田谷側では河原でのバーベキューが禁止されているため、野外でバーベキューをしたいなら、川崎市側に住むほうが良いというわけです。
河原には野球場、サッカーグラウンドなども設けられており、川沿いの遊歩道では散歩にランニング、自転車などと様々に楽しむ人の姿も。また、多摩川河原では川崎市側、世田谷区側それぞれが毎年8月半ばの同日に花火大会を開催しており、2つの花火大会が一度に楽しめることでも有名です。
続いては大山街道を高津駅方面に向かってみましょう。通り沿いにはそれほど多くはありませんが、古い建物が残されており、いかにも昔からの街道といったところ。最近では二子玉川人気に引っ張られるように、この街に目を向ける人が増えているためか、ところどころにしゃれた雰囲気の飲食店などもできており、今後が楽しみです。
また、最寄は高津駅になりますが、街道沿いには川崎市立高津図書館、幼児教育センターもあり、子どものいる家庭なら利用価値大。このあたりの道は平坦なので、さほど距離を感じることもありません。
さて、今度は駅の前の商店街を右側、南側へ向かってみましょう。こちら側は多摩川と並行するように商店街が続いています。道が細いためでしょう、大型店、チェーン店などは少ないものの、個人で昔からやっている豆腐店、魚屋さんなどが並んでおり、小規模なスーパーも。日常の買い物には便利そうです。お隣の二子玉川と違い、住んでいる人以外が遊びに来ることのない場所ですから、車も少なく、街中は至って静かです。
では、最後に東急田園都市線二子新地の住宅事情を見ていきましょう。