ところてんから生まれた寒天
江戸時代寒天づくりが盛んだった大阪府・高槻市では、寒天についてのコミック教材「高槻寒天物語」を制作し、子どもたちに郷土と食文化の歴史を伝えています。
(監修・発行/高槻寒天プロジェクト)
寒天が生まれた歴史には、それから長い年月を経ています。江戸時代初期、京都・伏見の旅館『美濃屋』の主人が、参勤交代途中の薩摩藩主島津公にお出ししたところてんを戸外に捨てたところ凍結し、また日中に溶けるという課程を数日繰り返して乾物となったものを発見しました。これを使って、再度ところてんをつくったところ、色もより白く磯臭さがなくおいしくなりました。
これを僧侶隠元禅師に試食してもらい、精進料理としてふさわしく、飢饉の際には救荒食物となると進められ、「寒晒しところてん」という意味で「寒天」と名付けられたといわれています。
各地に広まる寒天の生産
使いやすいフレーク状の寒天。高級和菓子用に使われます。
古くは有馬から高槻の摂津平野が生産地で、冬の農閑期の仕事となりました。寒天を煮とかし固めたものをところてんのように突き出し、それを干して糸寒天として作る製法などが生まれました。
さらに1800年代には美濃や諏訪の信州地方にも寒天の製法が伝わり、気候環境や使用するテングサの種類の違いから角寒天がつくられ、現在では長野県の生産量が多くなっています。
今では自然の天候による天然寒天づくりは少なくなり、工場生産で季節を問わず作られ、粉砕してつくる使いやすい粉末寒天などもつくられています。