歌謡曲の大きな一要素『外国人歌謡』
戦前に来日し『酒が飲みたい』をヒットさせたバートン・クレーンから『消臭力』のミゲル君まで、日本の歌謡曲を語るうえで外国人歌手の存在は欠かせない。独特のなまりで日本語の曲を歌う外国人はいつの時代も暖かい拍手に迎えられてきた。島国特有のツンデレ性をもつ日本人にとって、"日本語をしゃべる外国人"は異国文化に触れる第一歩として安心できる存在なのだろう。今回は外国人が日本語で歌う音楽で、主に日本国内を中心に流通したものを『外国人歌謡』と定義して、その歴史をご紹介したいと思う。コニー・フランシスやナット・キング・コール、近年のK-POPのように販売戦略の一つとして発表した日本語バージョン、ハーフ歌謡、日系二世歌謡などは区別し、またの機会にご紹介する。
元祖・外国人歌謡 バートン・クレーン
おおまかに芸能人ということなら1890年代から1900年代にかけて活躍した快楽亭ブラックというイギリス人落語家などもいたが、歌手では先にもあげたバートン・クレーンが『外国人歌謡』の元祖と言える。 バートン・クレーンはそもそも歌手ではなく新聞記者として来日していたアメリカ人ジャーナリスト。ところが、宴席でアメリカの宴会ソングにテキトーな日本語詞をつけて歌っていたところを面白がられてスカウトされた。
スカウトしたのはコロムビアレコードのL・A・ホワイト社長。折しもJAZZ、洋楽の販路拡大のために来日していたところだったので話が早く、大々的な宣伝によりバートン・クレーンの売出しが始まった。
第一弾シングル『酒が飲みたい』
第一弾シングルは『酒が飲みたい』。アメリカで歌われていた『Drunk Last Night』にバートン・クレーンが日本語の歌詞をつけ、それをさらに森岩雄が手直しして作られた曲。
たどたどしい日本語で
「万歳!乾杯! 養老の瀧が 飲みたい」
と歌われるサビはあまりにコミカルで衝撃的だ。
詩人、作家としてあまりに有名なサトウハチローをして
「この歌は歌そのものが既に酔拂つてゐるんである」
「ああ,俺もこんな酔拂つた歌が作りたいんである」
と言わしめたこの威力。
曲調はマーチ風のシンプルなポップスとでも言えばよいだろうか。ドラムのリズムがよく効いていて当時としては非常にハイカラな印象だったに違いない。
"銀座を歩くと,どこの店からも,このレコードが聞えてくる"ほどの大ヒットをおさめたこの曲以降、クレーンは1934年まで活動。ヒットと呼べるのはセカンドシングルの『ニッポン娘さん』までだったようだが、その後もジャズあり、カントリーあり、漫談デュエットありと約30曲の多彩な楽曲を残している。
淡谷のり子先生とのデュエット作『よういわんわ』
僕が個人的にお気に入りなのは後世"ブルースの女王"と呼ばれることになる淡谷のり子との漫談デュエット『よういわんわ』。この曲は当時、経済的に絶頂期を迎え、音楽でも大きな盛り上がりを見せていた大阪を観光してはしゃいでいる男と、それにヤキモチを焼く女のかけあい漫談がベースになっているのだが、構成、音楽性ともにクオリティが高く、しかも淡谷の声がキュート(!)でなんとも言えない中毒性を秘めている。ぜひ一聴してほしいナンバーだ。
クレーンは3年間の歌手活動を通して榎本健一、古川ロッパなど当時の大スター達と親交を深め、1934年以降はふたたびジャーナリストの仕事に専念した。戦前、戦後の日米交流にも貢献し、没後に『二十世紀のビジネス・ニュースをつくった百人』として顕彰されている。
今後もこのシリーズをよろしく
シリーズの第一回目ということもあり、今回は僕が外国人歌謡の元祖と考えるバートン・クレーンを紹介した。戦前の外国人歌謡は、情勢や感覚も異なる時代の音楽だけあって、面白いぶん複雑で難解なジャンルだ。しかしあえてそれを分析することによって、現代の音楽シーンに対してもまた新しい目線で接することが出来るのではないかと思っている。
※この記事を執筆するにあたり山田晴通氏の『バートン・クレーン覚書』を参考にしました。