若く、美しくありたいという欲望の暴走
地味な女より、衆目集める美しい女でありたいのは、女なら誰しも抱く願望(c)2012映画『ヘルタースケルター』製作委員会
りりこのように全身整形まではせずとも、ほとんどの女はメイクやダイエットや美容で若さと美しさを演出する。つけまつ毛やハイヒールや補正ブラで、なんてことのない自分を懸命に盛ってみせようとする。
けれど、その若さや美しさが恋愛の武器にはなれど、若くて美しい女が恋愛の勝者になれるとは限らない。しかも、その欲望は呼び水となってさらなる欲望を呼び込むという危険なトリックがあることも知っていて欲しい。
愛し、愛される構造が空回りし、歪みだす恐ろしさ
目についたものは、すべて手に入れるのが、心が乾いた人間の特徴(c)2012映画『ヘルタースケルター』製作委員会
それは、他者との関係性においても同じこと。男はたしかに若くて美しい女が好きだけれど、若さと美しさを求める男の欲望に答えるほどに、女は若さと美しさがないと愛されないと思い込み、渇望感は強まって、どんどん苦しくなっていく。本能と孤独感ゆえに、若く美しい女を、どんどん消費してしまう男もまた、愛に対する枯渇感を募らせていく。
本作では、そんなドラッグのような欲望でつながりあう男と女の間に生まれる、枯渇感や共依存の闇ついても描いている。りりこは、大衆の歓声を集め、御曹司に愛されるために、美しさと若さを極め続け、恋人からファンまで他者の欲望を煽り続けるが、心が満たされることは決してない。
さらに興味深かったのは、“他人に欲望される女”になろうと努力し続けていると、いつのまにか、女はみんな似てくるという現実。“美魔女”や“渋谷系ギャル”ように、コスプレ感が強くなり、カテゴライズされるようになっていく。そうなると、もはや、自分を盛る努力は、男に愛されるためではなく、女の賞賛を集めることにシフトしていくし、そのうち、誰かのためですらなくなっていくことに本作を観て、改めて気付かされた。